トピックス&レポート2021


12月4日(土)幻の”都合谷鉄穴を探せProject いよいよその日

ただ今制作途中 coming Soon

12時30分 ■日野町中菅 畑(はた)の「都合山たたら入口」に集合したのは、我々スタッフを含む約20名。募集チラシの「健脚向けプログラムでかなりタフな行程になります」との但し書きを読まれた上で参加されたの猛者?の内、女性が4名。

受付〜事前説明〜参加者及びスタッフの自己紹介を行ったあと、都合谷鉄穴の歴史・年次ごとの生産量、鉄穴流しの事例や概要、今回の踏査における唯一の資料である「近藤家絵図を提示しました。

参加者には行程の途中でそれぞれ個々に、この絵図をヒントにして「鉄穴流し」の証拠・痕跡となるものを探してもらうこととし、このことについてスタッフがOKと言うまで私語を慎み、お互いに相談しないで歩いてもらうことをお願いし、いよいよ出発。都合山たたら跡に至る途中、切り割り地点で角田さんが合流されて、そこから角田さんを先頭に、切り割りの左側、ブッシュをかき分けながら山の斜面を急登。尾根に近いアタリまで上がってからは山肌を横に、列をなして移動していきます。

そうして歩くこと20分ほど、ここで参加者の皆さんに「鉄穴流し」の証拠・痕跡となるものが見つけられたかどうかを質問しました。全く解らないという人、すべての地形がアヤシイという人、白く露出した岩肌が気になったという人などいろいろ。歩いてきた何となく平坦な道は水路ではないか?ピンポーン〜という方がひとりだけ。この謎かけで、「宝探し」の気分を少なからず皆さんに味わってもらえたのではないでしょうか。

これよりインタビュー形式で角田さんにタネ明かしをしてもらいました。到達したこの地点は、実はふたつの水系から引いてきた井手の合流地点であることなどが解説され、参加者からは驚きの声や熱心な質問が多々。

何となく平坦な道に思えていたところが水路(井手)であったことや、途中に水量調整用の池が設けられていたことなどを確認しながら切り割り地点まで戻りました。

この切り割り地点では多分、掛樋で水を渡したのであろうと説明があり、そこから今度は反対側に登ります。今まで歩いた平坦な道=井手の跡らしいレベル(標高)に達したら、そこからまた井手の跡をなぞっていくことになります。急な山肌に設けられていた井手は、いまは崩れていて歩きにくい箇所も多く、角田さんを先頭に皆足下に注意を払いながら歩行。

尾根筋沿いに蛇行しながらも平坦に続いてきた井手が、やがて一挙に下り始め、参加者は背の高いクマザサをかき分け、また掴みながら、V字谷を気をつけながら下降していきます。中途で角田さんによる解説。V字谷の両側斜面は、切羽(土砂を掻き落とした場所)となっていて、長い井手を引いてきた水をここで一気に落としながら、土砂を流して、いわゆる「走り」と呼ばれる水路が下方の選鉱場に続くのです。

 

説明を聞いた後、さらに走りの上部となるV字谷の急な右側斜面を、滑らないように注意しながら下降。杉林の中をしばらく降りていくと、都合谷川の瀬音が聞こえ始め、やがて・・・

都合谷川まで降りてくると、川沿いにわずかな平坦面。そこが実は砂鉄選鉱場であるとのこと。川向かいのいわゆる「たたら街道」を何度も歩いたが、そう言われないとおそらく何も気づかない。今回は角田さんの手でキレイに掃除がなされていて、選鉱場の証左となる石組みや排砂口などを見ることもできる。そうした選鉱場の構造について角田さんの解説を聞き、いままで歩いてきた尾根筋の長い井手から水を落とし、その力で掻き落とした土砂を運び、井手の最終点となるこの選鉱場でわずかな砂鉄を採取していた仕組み、先人の知恵や工夫や今では想像だにできない重労働に、参加者は驚嘆。皆さん、大いに納得されていました。(つづく)

 

 



11月  幻の”都合谷鉄穴を探せProject 事前踏査 part 2

10月30日の事前踏査の後、角田徳幸さんによる更に広域にわたる調査がなされました。113日には井手上流側、都合谷川の取水堰の位置も確認でき、花口から下りてくる道が、西から延びる低い尾根筋で狭まるところに貯水池があったようです。

 

さらに116日、30日に見た選鉱場の下側に別の選鉱場が確認され、また近江川水系から続く井手も確認されました。

 

渓流の取水堰から延びるその井手は、斜面の急なところは石垣を造ったり、巨岩があるところはそれを迂回するように回してあったりと非常に手のかかったものとなっているようです。

つまり都合谷川と近江川、このふたつの水系から井手を引いて合流させ、尾根筋にそって下に流した形跡を見ることができるとのことです。砂鉄選鉱場までの距離は、近江川水系の取水堰からは2.2km、都合谷川の取水堰からは1.3km程度。

 

11月13日と14日にも砂鉄選鉱場を主とした詳細調査を重ねて、いざ12月4日(土)のイベントを迎えることになりました。

 

 

 



10月30日(土)幻の“都合谷鉄穴”を探せProject 事前踏査 part 1

幻の”都合谷鉄穴”を探せPjtとは!?

日野の大鉄山師、近藤家に残されている1枚の絵。日野郡黒坂村大字中畑村字都合谷鉄穴(かんな)とあり、近藤家5代目近藤喜八郎の他、地主総代の柴田、小林の名が記されています。

連なる山並みの手前、右の花口方面から上菅へと流れる都合谷川。右上部には二筋の水路。中央の山の後方を通ってから下に向かって、砂溜〜精洗場となって都合谷川になだれ込んでいます。

県指定史跡「都合山たたら跡」近くのエリアに「鉄穴場」があったことはこの文書によっても明らかで、平成20年に「都合山たたら跡」の発掘調査をされた角田徳幸さん(島根県古代文化センター長)も、機会あるごとにこの現地を探してこられましたが、今日まで確認できず、まさに「幻の鉄穴場」となっていました。

令和3年10月、日野川の源流と流域を守る会が「森や水に親しむ活動」の支援事業をされていることを知り、急遽エントリーして採択され、12月に実施したのがこのイベントです。

この1枚の絵を手がかりに、参加者を募ってみんなでこの現地を探そう!というのがこのPJTです。

何の目算もなく、本番・・・というのは無茶な話しなので。

しかしイベント計画が採択された・・・とは言え、うたい文句の通り、一般参加者に山に分け入ってもらい、0から現地を探してください〜というのは乱暴に過ぎます。12月の寒さの中で遭難などあれば大変なことです。イベントまでに某かの目処は付けておかなければなりません。

事業の採択を受けて10月15日以降、角田徳幸さんは本格的に現地踏査を開始。休日の度に松江からはせ参じて、山の中を歩かれ、ついにその一端を捉えたとのこと。

10月30日には角田さんの先導で、たたら顕彰会の関係者5名による事前踏査を行いました。山内へと向かう切り割りから急斜面を登り、雑木林から笹藪をかき分けて、ゼイゼイ言いながら角田さんの後を追います。角田さんは流石にフィールドワーク=考古学を専らとされているだけあって、足の速さ〜身の軽さが違います。他4名はついて行くのがやっとですが、やがて道らしき平坦面に出てほっと一息。

しかし獣道にしては整然としていて、かといって山林管理のための作業道でもなさそうな・・・、実はこれが井手(水路)の跡だったのです。これを上流〜下流にたどっていけば「幻の鉄穴場」の様子が解ることになります。

上流側に向かって、絵にあるふたつの井手が合流するポイントまで行き、引き返して今度は切り割りの反対側へ。切り割りではおそらく、樋を掛けて水を渡したであろうと想像され、更に下側に井手の痕跡をたどりながら進むと、各所で崩れながらも緩い勾配で続いていきます。

水路は急にV字谷になだれ落ちて、

ふうふう喘ぎながら笹が生い茂る場所に立つと、そこはどうもV字谷の最上部で、そこからは急な角度で下になだれ落ちており、角田さんの先導で文字通り「ヤブを漕ぎながら」下に向かって谷底を降りていきます。

このV字谷こそが「切羽」。谷の両側の山肌を削り落として流した場所で、更に降りていくとイノシシのヌタ場(水浴び場)があったり、両側から杉の倒木が倒れ込んでいたり、そうして滝の体を為した場所にたどり着きました。水路はいわゆる「走り」と言われ、こうした場所に水を流すことで、土砂をより細かく粉砕していました。そして都合谷川本流まで降りるとその岸辺のわずかな平地に、ぬかるんだ場所が。こここそが「選鉱場」。流速や流量を調整しながら、いくつかの小さな池を通し、きれいな水を加えながら(足し水)余計な砂を除き、土砂に含まれるわずかな砂鉄を採取していた場所です。

写真でご覧頂くように、こうした説明がなければ一見、このあたりの山中にはどこにでもありそうな風景なのですが、井手をたどってきた結果、一連の「鉄穴流し」の遺構であることが確認できました。角田さんはさらに周辺調査を行うとのこと。この確証を以て、12月4日のイベントに臨むことができそうです。

 



11月21日(日)下原重仲”恭敬”ツアー&フォーラム in 江府町

日本古来の鉄づくり「たたら製鉄」では、技術その他のノウハウは門外不出の秘術ですが、江戸時代にその実際をまとめた本がありました。たたら研究の必読書といわれる「鉄山秘書」です。書いたのは鳥取県江府町宮市に住まいした鉄山師・下原重仲。令和3年11月5日が、重仲の没後200年の命日にあたることを機に11月21日、〝恭敬〟(リスペクト)と銘打ったツアーとフォーラムを地元江府町で開催しました。(江府町文化協会とたたら顕彰会が主催)
午前中は20数名が参加して、下原家が元々居住し、たたらを行っていた江府町深山口から、重仲が住まいした江府町宮市をたずね、お墓にお花と線香を手向けました。
午後は約70名の参加を得て江府町役場2Fにてフォーラム。島根県古代文化センター長で、たたら研究の第一人者である角田徳幸さんの基調講演、地元の歴史研究家・橋谷俊二さんによる地元ネタいろいろ、奥州へと出奔した父・重仲を探して連れ戻したという息子・恵助(えすけ)の孝行話し(近藤家文書に残されていたもの)を地元有志によって朗読劇風に披露してもらい、これらの内容を「おさらい+α」するという流れでパネルディスカッション。重仲については全く初の試みであるにもかかわらず、かように欲張った内容となりました。
参加者の中には東京からやってきたという若者も。他、松江や米子からも熱心な「たたらファン」に多数お越し頂きました。ご参加ありがとうございました。これをキッカケに今後も継続的に、重仲・鉄山秘書研究と顕彰活動を続けていきたいと思います。
 

重仲〜恵助の「その後」、あるいは「鉄山秘書」にまつわる新説も。

「鉄山秘書」(原題は「鉄山必用記事」)は全8巻。金屋子神、砂鉄の特性、鉄穴流し、木炭の性質、高殿・製鉄炉の構築、送風設備、鉄山の規律、各種文書の作成―など、たたら製鉄にまつわる信仰、施設、操業法、組織運営などを絵図入りで紹介しており、1784年(天明4年)に完成したと伝えられ、たたら製鉄研究のバイブルとされています。原本の所在は不明ですが、江戸時代に大坂の鉄商人「中川氏」が筆写し、その写本が東京大、筑波大、九州大に伝わっており、現代語訳の書籍『現代語訳鉄山必用記事』(館充著)もあります。

下原重仲(1738~1821年)の先祖は一説によると、初代は津山藩主・森忠政(本能寺の変で亡くなった森蘭丸の弟)の孫で、いまの江府町深山口でたたら製鉄を始めたと伝えられ、その現地も確認できます。その4代目(重仲の父・臨)が宮市に分家し、重仲はそこで生まれ、父親とともに鉄山経営に励み、この体験をもとに30歳で「鉄山要口訳」、46歳で「鉄山秘書」を著しました。次世代にたたら製鉄の経営ノウハウや秘術を残したいというのが動機だったと言われていますが、真意は定かではありません。

しかし、田沼意次の幕府財政立て直しの一環で大坂に鉄座ができ、鉄の自由販売禁止、鉄価下落で多くの鉄山経営が行き詰まり、重仲も大坂で金策に走りましたが、うまくいかず、鉄山を廃業し、49歳で出奔。失意の中で青森県の竜飛岬あたりまで流浪します。息子の恵助が宮市に連れ帰った時には、歳すでに57歳。

このように謎多い重仲ですが、今回のフォーラムでは息子の恵助が「たたら」を引き継いで操業していたことも明らかにされ、関係者の間では、恵助はその経営を補助してもらうべく奥州まで迎えに行ったのではないか?との推論も。

その他、重仲は「経営難から大坂で金策に走った」とされているが、大阪に次の設備投資などの資金を相談に行ったのだが、それだけではなく全国遊学とか行脚の目的もあったのではないか。伯耆に帰ってきてからすぐ操業できたということは、廃業したわけではなく、財政的にも破綻していた痕跡はないとの推論も。今回朗読された近藤家の文書(恵助の孝行話)も、恵助亡き後に記された物で、真実からずれている可能性があり、これらの推論(仮説)の是非は今後の調査研究を待つことになります。

また近年、「鉄山秘書」が完成する16年前に書かれたとされる古書「鉄山要口訳」(日野町蔵)も見つかっており、「鉄山秘書の元本であろう」とされていますが、今回のフォーラムでパネリストの高橋章司氏(鳥取県青谷上寺地遺跡整備室)から、現存する「鉄山要口訳」は後年、孫の為吉が筆写したものではないかと言う新説や、また内容も「鉄山秘書」とは少し趣が異なり「経営」が中心となっていること、加えてその前に20代の頃から「鉄山諸用記」を書き始めており、これが「要口訳」や「鉄山秘書」の一番の元になったのではないかという指摘も。

 

■今回のツアー&フォーラムを通じて、今まで多くの謎に包まれていた重仲の人物像が、より具体的〜立体的なイメージとして結ばれて来たように感じられます。こうした「たたら研究」における最先端の議論が、今回のフォーラムで展開されたことは、関係者にとっても実に驚くべきこと、この上なく嬉しいことでした。


11月13日〜14日 都合山現地ガイド2days &とことんツアー

13〜14日と、都合山たたら遺跡にて現地ガイド2days。10時から15時までの間ならいつでも、現地にお越し頂ければ、たたら顕彰会と奥日野ガイド倶楽部メンバーが、史跡のこと、たたらのこと全般についていろいろご案内しますよ・・・という趣向で、遠く東京や丹波、津山など遠方からお越し頂いた方々もありましたが、地元日野町民さんは残念ながら皆無。本来なら、ぜひこの機会に、地元の皆さんに来てみて頂きたかったのですが、なかなか難しいことを実感しました。

14日は「たたら”とことん”ツアー」と題して、午前は根雨の町〜たたらの楽校、リバーサイドひので昼食を摂っていただいてから都合山たたら跡へ・・・と、随分欲張りな内容でバスツアーを催行。10数名の方々にご参加頂きました。

 

 

 

例えば「お金」や「おいしいもの」については、10人中8人〜9人が間違いなく興味をお持ちであろうことに対して、「歴史や文化」まして希有な「たたらの歴史」といったことになれば、興味関心を持つ人は、多分1人未満?そうした比率を考えたら、全国〜世界から広く薄〜く、お越し頂けるようにするしかないのかな?とも感じますが、今回ご夫婦でお越し頂いたDさんがFBに投稿された「都合谷川沿い・たたら街道」の写真に見られるように、気持ちいいトレッキングコースと、その目的地として「都合山史跡」を捉え直してみればまた違ったアプローチもできそうです。

とまれ、この試み、今後もめげずに続けていきたいと思いますので、どうぞよろしくお願いします。

たたら街道〜上菅五滝の写真集 (D氏撮影)


10月29日(金)鳥西高のESD研修でたたら解説&都合山ガイド

先日の日野中生に続き、12月29日(水)は鳥取西高校の生徒さんたちに「たたら」の解説。午前中は「たたらの楽校」で座学、午後は都合山。お題目が「鳥取県ESD研修」となっていて、ESDを調べたら「Education for Sustainable Development」、すなわち「持続可能な社会構築のための教育」・・・とのこと。研修の具体的なテーマは「鳥取県の地下資源と地域づくり」。
レジメには「鳥取県の地下資源について科学的に正しく理解するとともに、地域づくりの観点から地下資源と社会、環境の関係性を考えることにより、文理を融合した学際的かつ総合的な科学的素養を身につける。」とあり、これはまさに「たたらを入口とした科学の旅ガイド」そのもので、一段とテンションが上がりました。解説では地球史〜人類文明史〜特に産業革命以降のエネルギー利用の変容などについて、「科学の旅」を元に急ぎ足でお話しし、午後、都合山では、やはり現地に立たないと解らないであろうこと、感じることを大切にしてもらうよう心がけて、ガイドをさせてもらいました。
大学に進学すれば、一挙に専門科目に身を投じることとなり、文理を超えて科学や歴史を俯瞰する機会が少なくなりがちです。中高生にはこうした学習の機会がとても求められているように思います。教育関係の皆さま、ぜひリベラルアーツの一環として、「たたら」をご活用ください。「奥日野のたたら」をご指名いただければ、頑張ってお応えします。

10月14日(日)たたらの楽校に「野原文庫」開設

10月24日(日)に開催した「令和のふいご祭り」に併せ、広島から、たたら研究(近代産業史)を専門とされた野原建一先生と奥様にお越し頂いて、「野原文庫」の開設をご紹介し、顕彰会の田貝会長から感謝の言葉を申し上げました。

「野原文庫」は、2020年3月にご寄贈頂いた先生の蔵書の中から、特に「たたら」に関するものを厳選し、100数十冊をたたらの楽校・根雨楽舎に置いて、ご希望の方に貸し出そうというものです。

野原先生は長年、「地域産業の歴史と中山間地域の中小企業と経済活性化についての研究」を主なテーマとされ、「たたら産業史研究」をベースに現在も、地方〜地域社会の活性化に向けてさまざまな提言をされており、たたら顕彰会も設立当初から貴重なご助言をいただいてきました。「野原文庫」開設によって、先生のご厚意が、たたらに興味関心をお持ちの皆さんに、これからどんどん広がっていくことを期待しています。


10月24日(日) 令和のふいご祭り /日野町役場前

この日は晴天に恵まれて「令和のふいご祭り」を開催。かつて「鞴(送風機)」を使って製鉄や鉄の加工を行っていた人々の、年に一度の休息日として、旧暦の11月8日に行われていましたが、たたら顕彰会では年に一度、「たたら操業」を行うイベントの日として始め、今年が8回目となります。

朝からミニたたらの高殿(と言っても今風にテント製)や炉の建設〜そして神事のあと火入れ〜砂鉄投入と続きます。砂鉄投入ではこの日も約50人の皆さんに、実際に体験をしていただきました。約2時間くらいたった頃、「ノロ出し」。炉にたまった不純物を取り出します。火入れから約7時間、いよいよ炉を解体して「鉧(ケラ)出し」。真っ赤に焼けた鉄の塊が取り出され、かなりの時間、水で冷却されて勢いよく白い水蒸気を上げながら、やっと触れるまでになります。

この日の鉧の重量は、6.7kg。砂鉄15kgからこれだけの鉧を作れたのは上出来です。会場には地元の中学生らしき子たちの姿も多く見られ、またたたら操業の傍らでは鍛冶体験工房も開かれ、賑やかにペーパーナイフの製作が行われていました。


10月6日(水)〜7日(木)日野中学校「ふるさと学習」2days

地元、日野中学校からオファーがあって、全生徒を対象に「たたら」の授業をさせていただきました。

6日午後は、電子紙芝居2編をまじえて、座学を80分。「水の惑星」とよく言われている地球は、実は「鉄の惑星」であること。地表近くにある酸化鉄を鉄に変え(製鉄)、人類は鉄を以て文明を築いてきたこと。日本では6世紀頃から砂鉄と木炭を用いて、日本独自の「たたら」と呼ばれる方法で製鉄を行ってきたこと。中世以降、ここ奥日野はその大産地であり、明治の近代化の中で日本を支えたことなどをざっくりと話しました。1年生と3年生では理解力も違うでしょうが、ぼんやりとでも歴史の文脈を理解し、また何か言葉のひとつふたつでも記憶にとどめてくれたら、それでOKだと思いますが、さて、如何だったでしょうか?

7日は午前と午後に分かれて、都合山たたら跡で現地説明。たたら街道、都合谷川沿いのウオーキング随行は奥日野ガイド倶楽部さんにご協力いただきました。現地では高殿や大鍛冶場など、主な施設の痕跡や配置などをガイドし、その後ロープを使って学習。まず水10トンが入る深さ1mのプールを作り、砂鉄の比重を3.5とすれば15トンはどれくらい?木炭の比重を13とすればどれくらい?っていうようなワークショップをやりました。そこからたたらでは、どれほど大量の物量を扱ったのか想像してくれたらと思います。前の日の座学、解ってくれているかな〜と、生徒たちに尋ねてみると、こちらの想像以上に理解してくれているような感じ・・・。彼ら、なかなかよく解ってます!!来年度以降、レギュラーになればと願います。


9月9日(木) 「福長下モノ原遺跡」発掘現場・現地説明会

山の中に新しい道路が出来るってことで、何が良いか?と言えば、もちろん交通の便が良くなるのは言うまでもありませんが、私たちにとっては古い遺跡調査が進むこと!(笑)菅沢ダムから下ったR180号脇、日野町の「福長下モノ原遺跡」発掘現場・現地説明会に行ってきました。段丘をけずって造成された平坦地に、中世の製鉄炉や排滓場(カナクソ捨て場)などが検出されました。鞖鞴座(ふいござ)の造りなど、他では見られない特徴があるようです。今のところ年代は大まかに「中世」とされていますが、今後放射性炭素年代測定でいつ頃のものか、もう少し詳細に解ってくると思います。また現在表出しているその下部に、更に古いものが在りそうだとのことで、それも楽しみです。見学会は10日と11日の3日間開催されました。


7月16日(金) 日野町公民館で「おしどり学園」

日野町公民館で毎月、主に高齢の方を対象に開催されている「おしどり学園」からお声がかかり、「たたらガッテン!講座」と題して、講演させていただきました。まず電子紙芝居『喜八郎の決断』をご覧いただいて、あとは例のごとく、「地球は何の惑星?」というクイズから始めて、鉄の歴史〜たたらの歴史、などなどを織り交ぜて、またできるだけ包括的な内容とすることで皆さんの脳みそを刺激し続け、よって居眠りするヒトは皆無!!(絶対、居眠りさせません!笑)知っているようで知らない「奥日野のたたらの話し」を楽しく話させていただきました。こうしたカタチで今後、子どもたちにも話しが出来る機会があれば・・・と思います〜


3月13日 第3回 中国地方たたら懇話会(奥出雲)

日南町阿毘縁を経由して県境越え、奥出雲の絲原記念館で行われた「3回 中国地方たたら懇話会」に出席しました。「たたら」に関わる島根県東部の研究者さんや、博物館の学芸員さんが情報や意見交換をしておられる集まりで、この日が3回目。伯耆国たたら顕彰会の活動について、ぜひ話をしてほしいとのご希望があり、設立から現在までの取り組みやそのポイントなどをお話ししました。「たたら」に関わる取り組みでは出雲の方が、断然先を行っておられますし、安来の「和鋼博物館」をはじめ本格的なガイダンス施設も多数。我が方とは比になりませんが、このご時世(メンバーの高齢化やコロナなど)で同じような課題を抱えておられるようです。特に出雲の方はどちらかといえば行政先行で、民活主体でやってきた我が方とはまた違う悩みをお持ちのようですが、これを機会に奥日野と奥出雲、たたらで連携が進めていけたらと思います。


3月4日(木) 才ノ原たたらの遺跡発掘調査

日野町根妻で予定されている、国道180号の拡幅工事に伴って行われている「才ノ原たたらの遺跡発掘調査」の現場で、説明会がありました。年代的には、17世紀から18世紀くらいにかけて操業された、たたらの地下構造が3基。(年代特定はこれから放射性炭素測定でされるようです)古いものの上、あるいは側に、順次新しいものを構築して操業されたようで、地層にもよく表れているとのこと。

奥日野ではこうして古いたたらの上に、次々と新しいものをつくってきたため、多分うんと古いものもあるはずですが、なかなか見つかりにくく、そうした意味でこの遺跡はとても貴重です。

しかし往事の歴史を残す現況も、やがて道路拡幅で取り壊されることに・・・。新しい道路などができるところでは必然として発掘調査がされますが、イノシシしか通らない日野の山奥ではそうした調査がなかなか進みません。そうした歴史は山野の中に、誰に知られることもなくきっと永遠に、静かに眠ることでしょう。 『酒と涙と男と女』みたいになりました〜〜