木炭(炭焼きと山林保全)

ポイント

●「木炭」は「炭焼き」で作られる昔からの貴重な燃料で、切り出した雑木を炭焼き釜に入れ、無酸素状態で蒸し焼きにし、「炭素(C)のかたまり」にしたものです。

●砂鉄が良くても炭が悪ければ鉄は涌かず、砂鉄が多少悪くても炭が良ければ鉄が涌く・・・。たたら操業においてこのように言われる程、木炭は砂鉄と同様に重要な材料で、砂鉄を鉄に変える「酸化還元反応」という化学変化を司る重要な役割を果たしました。

●たたらは大量の木炭を必要とし、砂鉄に比べてかさ高な木炭の輸送にはよりコストを要したので、たたら場周辺の森林を伐採し尽くすとたたら場そのものを別の場所に移動。たたらの採算性を「小鉄7里に炭3里」といった言葉で表し、30年くらいの周期で森林が再生すると、また元の場所に戻るといった形で営まれました。

 


製鉄における炭素(木炭や石炭)の3つの役割

製鉄においては炭素(木炭や石炭)に、次の3つの役割があると言われています。

 ①「高温状態」を作り出す熱源 ※炉を千数百度の高温にするための燃料。

 ②「酸化鉄を還元する」還元材 ※酸化鉄の酸素を還元するために「一酸化炭素」を排出しやすいこと。

 ③「有用物(使える物)としての鉄」の添加物 ※鉄の性質を決定づける添加物=炭素を供給します。


酸素が少ない状態で蒸し焼きにして作るのが炭。

木炭の作り方

炭の原料は薪。普通なら薪を燃やすと大部分は二酸化炭素になって空中へ。残ったカスは灰になる。 

普通の燃焼 → C+02→CO2

 

切った木を炭焼き窯に入れ、着火して一定温度になったら焚き口を狭くし、空気が入り過ぎないようにして燃やし続ける。

酸素が足りない状態だと、酸素とくっつけなかった炭素が余り、余った炭素同士がたくさんくっつきあって、炭になる。 

 


木炭の種類/たたらに使ったのは「大炭」

参考)一般使用の木炭の種類

白炭/高温度(約1000℃)で焼かれ、堅い。

黒炭/低温度(400~800℃)で焼かれ、軟らかい。

消炭/まきや炭の火を途中で消して作った軟質の炭。火つきがよいので火種に用いる。

 

■大炭=たたら炉で用いる炭

爐の砂鉄を熔解還元させるために用いる炭で、炭化不十分なものがよいとされる。

大炭は黒炭よりも焼く温度がさらに低く、半蒸のものが多く、一般的な炭としての質は劣悪であるが、固定炭素が少なく(60%以下)、揮発分が多いので(30%以上)、火力を上げるのに都合が良かった。

●30年位に生長した濶葉樹を伐採し、土窯で薫焼する。ひと窯に生木4500貫位入れ、炭は約二割得られる。山子は1ヶ月1000貫内外焼く。炭窯は集材上1カ年に二回場所をかえる。●大炭に適する樹種は、松・栗・槙・深山ではぶな。適しないのは、しで・こぶし・桜・椎・栃。

 

■小炭=鍛冶に用いる炭

伐採木の枝や生木の細木を、地面を掘り込んだ凹地に積み、火をつけ、燃え尽きようとする時に柴木、笹や土を打ちかけて蒸し焼きとした。

●生木から一割程度とれる。大鍛冶の左下鉄・錬鉄に使用。●消費量は錬鉄ひと吹に九合から一升。●明治中〜後期、近藤家各鉄山では小割鉄一束(13.5貫目)に三升内外消費しているが、年間200石も使う鉄山もあった。●炭籠に入れて背負って帰るが、出火することがあるのでその夜は蔵入れしない。


山子の仕事

 

 

●山配と山子頭

山内の長役である「山配」、その助役のことを「山子頭」と言い、山仕事を仕切った。

■何役に限らず、休番の者を山配と打合せ小炭焼に行かせたり、吹雪、大積雪のときは、先立って山に行き、若年、老人には火を焚付けてやり、梅雨頃は雨天に木栫えして晴天に焼かせるなどの采配をした。

 

●山子

製炭(炭焼き)夫のこと、あるいは山仕事を総じて「山子」と呼んだ。鉄山直属の抱山子と村方山子がある。

■日野郡菅福山(近藤家鉄山)では67人雇用したとの記録もあり、自宅に帰らぬ山籠り山子も居た。

■小炭も月に一斗五升焼くことが課せられ、大炭は炭釜から道まで朝夕二荷ずつ負い出す。焼灰木も、回り持ちで伐り出す。

■また欠間として後吹を、また若者は番子を勤めた。

●道打夫・道夫

大炭焼釜までの作業道をつける者は別におり「道打夫・道夫」と呼んだ。

●山番

鉄山林の管理を鉄山師から委託された人。所の山に委しい村人が指名され、扶持米を受ける。

 


小鉄7里に炭3里

大量の木炭を必要としたために、たたら場そのものを移動。

ちなみにたたら操業1回(一代)に使用した木炭は14〜15トン。木炭14〜15トンを生木に換算すると約95トン、森林面積で1.5ヘクタール相当となります。

 

たたらは大量の木炭を必要とし、砂鉄に比べてかさ高な木炭の輸送にはよりコストを要したので、たたら場周辺の森林を伐採し尽くすとたたら場そのものを別の場所に移動。たたらの採算性を「小鉄7里に炭3里」、つまり「砂鉄は7里(28km)、木炭は3里(12km)の範囲内から運搬可能であること」といった言葉で表し、森林保全を図りながら30年くらいの周期で森林の再生を待ち、また元の場所に戻るといった形で営まれました。日野郡内に数百ものたたら遺跡があるのはそういった理由からです。

また鉄山林や鉄穴場の諸権利などを共同所有する場合(合持/あいもち)もありましたが、そうした広大な山林を所有する資産家でなければ、鉄山経営はできませんでした。

※「小鉄8里」と言われる場合もあります。