砂鉄(鉄穴流し)

ポイント

●鉄鉱床が少なかった日本において、花崗岩などにわずかに含まれる砂鉄を原料としたのが「たたら製鉄」です。

※たたらでは、燃料は「石炭」ではなく炭焼きで作る「木炭」を使用。

●砂鉄は川岸や海岸に自然に堆積したものを集めたほか、山際を掻き落として土砂を水路に流し、比重の差によって選別・採取する「鉄穴(かんな)流し」という方法で得ていました。

●たたら操業1回(一代)に使う砂鉄は14〜15トン。それを調達するためには多くの労力を要し、大規模な地形の変造を促すことになりました。

●下流に流した大量の砂を堰き止めて土地を造成し、そのため新たな田畑が作られましたが、さらに日野川下流に流れ出たものは弓ヶ浜半島や米子平野を形成する要因ともなりました。

 


砂鉄とは?

砂鉄(さてつ、iron sand)は、恐竜の栄えていたジュラ紀(約2億年前)から、新しいものは新第三紀(約500万年前)のころ、地球の上部マントルや地殻下部のような深部で、マグマが徐々に冷却して生じた花崗岩や閃緑岩などの「火成岩」に1~2%程度含まれる鉄分(チタン磁鉄鉱やフェロチタン鉄鉱)が、風化作用によって母岩から分離、砂状になって酸化したもの(酸化鉄)です。川辺や砂浜などで自然に見られ、天然の砂鉄は普通「磁鉄鉱」からなり、磁石に吸いつきます。

 

※日本列島はニュージーランド、カナダと共に砂鉄の世界三大産地のひとつ。

 

※現在でも、日野川下流の皆生海岸あたりで、岸辺に堆積した砂鉄を見ることができます。


山陰地方がたたらの一大産地となったわけは?

山陰地方の地質は比較的若く、黒雲母花崗岩を主体とするチタン磁鉄鉱帯(真砂砂鉄地帯)となっています。一方、山陽側はフェロチタン鉄鉱系(赤目砂鉄地帯)です。たたら製鉄にとってはチタン含有量が少ない方が、経済性や技術性において有利で、たたらに適した良質の砂鉄が豊富にあったことから、山陰地方が全国の鉄需要を一手に賄うようになったと考えられます。


砂鉄の種類と採取場所

砂鉄の種類(性質による分類)

■真砂(まさ)砂鉄

酸性岩類の花崗岩を母岩とし、黒色の光沢を有し、全部磁鉄鉱類。チタン含有量が少なく溶解温度が高く、玉鋼になる。主にケラ押し法に用いる。

■赤目(あこめ)砂鉄

塩基性岩類の閃緑岩を母岩とし、褐色を呈し、磁鉄鉱の中に褐鉄鉱、または赤鉄鉱を混え、チタンを多く含み融解温度は低くて炭素を良く取り込み、銑(ズク)押し法に用い、銃鉄の原料として使われた。

 

◆実際には、採取地などによって異なる様々な砂鉄の特性を活かし、操業のプロセスやその時々の目的に応じて調合して用いられていた。

◆砂鉄の種類(採取場所による分類)としては、山砂鉄、川砂鉄、浜砂鉄などがある。

◆日野川の左岸(西側)には真砂砂鉄が多く、特に日南町大宮(印賀)より採取する品が最良とされる。

◆日野川右岸には赤目砂鉄が多く見られ、日南町多里・石見・福栄村が最も豊富。

※備中の国では、赤土の中より流し取る粉鉄(小鉄)あり、あこめ鉄と申し、性合能き粉鉄なり。とある。

 


砂鉄は1回の操業で14〜15tも使用!

土砂に含まれるわずかな砂鉄を鉄穴流しで採取

「鉄穴流し」は戦国〜江戸時代頃に開発された山砂鉄の採取方法で、砂鉄を含んだ土砂を崩して水路に流し、軽いものは下手に流し、重い砂鉄を底に残しながら、「水洗い」を繰り返すことにより純度の高い砂鉄のみを選別するという仕組み(比重選鉱法)です。

鉄穴師と呼ばれる人夫により、鶴嘴(ツルハシ)・打鍬・鋤などをもって山地(鉄穴)の土砂を崩壊させ、水を流して砂鉄を採取しました。

 

鉄穴新設(鉄穴懸開き)には、水を溜める堤(貯水池)、数キロメートルにわたる鉄穴井手(水路)、鉄穴崩し場の権利取得と造成、走り、足水、精洗場、小鉄置場、石ばね場、鉄穴師居小屋の造成、流し子手当など多くの労力と経費がかかりました。

※高額経費の例は明和6(1873)年、溝口庄村の緒形家鉄穴懸開き経費銀21貫120匁。


鉄穴流しによる、驚くべき土地の変造!

●3日3晩をかけてのたたら操業1回(1代)で使用する10数トンの砂鉄を採取するために、風化した花崗岩層をどれくらい掻き崩して流したのか?砂鉄の含有率を1%とすれば、百数十トンの土砂を流したことになります。

●明治中期、日野の大鉄山師・近藤家が経営していたたたら場は10ヶ所前後、たたら場によっては年に60回くらい操業したという記録もあり、鉄穴流しで流した土砂の量は想像を絶します。

右の写真は明治末期〜大正初期、日南町阿毘縁(あびれ)深﨏の鉄穴場を撮影したもの。数人の人影が鍬を手に、白い小山に立ち向かっています。現在この場所は広い田んぼになっており、長年をかけて山の様相を一変させるほどの変造がなされたことを物語ります。

●こうした営みが江戸時代からさらに遡って、数百年をかけて奥日野の各所で続けられた結果、日野川下流に達した廃砂は弓ヶ浜半島を形成することになりました。

※鳥取県立図書館所蔵資料(編集加工済み)

弓ヶ浜や米子平野は奥日野の土でできている!?

奥日野からさらに下流に流れ出た砂が、長い年月をかけて弓ヶ浜や米子平野を造ったと言われ、その量は2億5千万立方メートル(米子の全面積に高さ1.9m分)とも試算されています。(福岡教育大学/赤木祥彦氏)

現米子市の総面積=133平方キロメートルに、土砂が1.9m堆積した勘定となります。 



鉄穴流しの実際/比重選鉱法

最上流●貯水池

鉄穴場の上に設けられた水源池。底は粘土で固め、夜間に水をため、排水は土樋の上下にある蜂の子(栓)の抜き差しで調節する。そこから山際に沿って鉄穴場に水路(走り)を設ける。

●走り

山をツルハシで崩し、土砂を流す水路のこと。鉄穴場から下へ0.5~4kmくらい流して選鉱場へと続く。この間に土砂は粉砕され砂鉄が分離する。この間に「どんど」と呼ばれる滝と滝つぼ、それも流れ落ちる距離が長いのがあれば、砂石がより細かく砕けるので良しとされた。

 

●選鉱場(本場・下場)

比重によって砂鉄を繰り返し選別する「洗い場」。通常3~4か所の洗い池に分かれている。

中国山地では大池、中池、乙池、樋(ひ)と名付けられた洗い池を次々に流し、土砂は次第に選鉱され、最高80%程度まで砂鉄分の割合を高めたところで採取した。

 

●足水(たしみず)

鉄穴流しの際、新たに入れる水のこと。清水井手とも言う。走り水は濁っているので、精洗場近くに別の水源から澄んだ水を引入れる。

 

●作業員

鉄穴流しの作業人を「鉄穴師」あるいは「流し子」とも言った。

■大鉄穴で山口穴打(崩し)に10人から15人、春分の頃、水の強いときは20人も必要。

精洗場で小鉄を取り上げる「居士」は3〜4人。

■打鍬・斧鍬・釿鍬・熊手・鞴(道具直し用)・大小鍛鎚・木切などの道具を使った。

■防寒用足回り用品は甲掛(爪籠をはく前に踵を覆う布切れ)。草鞋。爪籠(足先に履く藁で編んだ、つっかけ様のもの)。はばき(いぐさなどで編んだ脚絆様のもの)。

 

●鉄穴師頭の仕事

仕事は鉄穴口の見回りと井手懸り水の有無多少、池川の様子見。谷番の回り役を定める。鉄穴師賃銭の上下をきめる。山口穴打ち場頂上の石の処理。堤・池・樋の見分と池の樋穴の、のみの差し抜き。出水時取上砂鉄流出防止対策。落土に埋まった者の救出(早く水をはずし手で掘り出すこと。)

山替えや、宇戸替えは本小屋手代立会の下で差図をうける。

●小鉄洗いの仕事

並洗(砂鉄純度が50〜60%)の砂鉄を洗いなおして真洗とし、純度を高める。松・杉の厚板で樋をつくり(長さ三間・横三尺・深さ一尺)精洗する。一回に140〜150貫、一日に10回位。


鉄穴流しのいろいろ

日南町砥波上鉄穴の場合

元々ある谷川の上流に設けられた取水堰から、ほぼ等高線に沿って井手に水を流し、途中の谷水を加えながら、また水量調整用の池を通して、「切羽」で山を切り崩して土砂を流します。流された土砂は「走(ハシリ)」と呼ばれる緩急をつけた流路で粉砕され、最終の「選鉱場」へと至り、大池〜中池〜乙池〜洗樋と比重選鉱が繰り返され、砂やゴミは排除され、砂鉄の純度を高めていきます。

上流の取水堰は時代を遡ると、ずっと下流にあり、掘削が進むに従って上流へと移動、井手の高度も高くされていった形跡が見て取れます。(図中の黄色い破線)

日野町都合谷鉄穴の場合

近藤家に残された1枚の絵図から、久しく「幻の鉄穴場」とされてきた都合谷鉄穴。2021年の秋、その一部が明らかになりました。近江川と都合谷川、二つの水系から水を引き、尾根沿いを1〜2kmほぼ平坦に流して数十メートルの高低差をつけ、砂鉄採取場所(切羽)で一気に水を落として土砂を流すという方法が採られています。

今回見つかった「選鉱場」は2ヶ所ですが、その上流にも下流にも複数あったのではないかと想像されます。

●「幻の鉄穴場を探せ!プロジェクト」のレポートはコチラ



鉄穴流しに関わる数字

元治元(1864)年、日野郡内に鉄穴数235箇所、明治9(1876)年に232箇所あり、合持も多かったが、やがて大鉄山師のもとに集積される。■郡内の鉄穴268箇所。

 

小鉄枡●小鉄の計測には各地方、各鉄山師ごとに異なる枡を用た。嘉永6(1853)年には段塚枡以下緒形・水尻・二部谷・備中など14通りの枡があった。■段塚枡は30貫、備中枡は20貫入り。 ■方一尺1〜2寸、深さ6〜7寸の底無し枡、これを二杯で一駄とする。


下流に流した砂で土地造成

含有比率1%とすると、流した砂の量は砂鉄の100倍!

鉄穴流しで流した砂を、下流に設けられた堰(せき)で

せき止め、堆積させて土地を造成。田んぼなどにした。

鳥取県日南町では江戸時代、幕末に至る百数十年の間に、石高(コメの収量)が4割ほど増えていることが「郷村帳」から解る。これはその時代、「鉄穴流し」で新たな「流し込み田」が各地に作られたことが主な要因。

※郷村帳とは、収税の基礎とする各村の生産高を記した統計書

 

島根県東部を流れる「斐伊川」では、江戸時代(1635年)、西側の日本海に直接注いでいた下流流路を東側の宍道湖へと流れるよう「川違え」を行い、その後、何度も流路を変えて土地造成を行い、現在の宍道湖西岸(出雲空港あたり)はそうして造られた土地である。

 

鉄穴流しによってできた地形

日南町福栄。「福」のつく多数の地名は「たたら吹く」に由来するとも言われる。

周辺を削り取ったことで独立峰のような山容(遠隔残丘)になった大倉山。

印賀宝篋印塔からみえる、日南町大宮地区の田園風景。