たたらの楽校 根雨楽舎

幕末以降、日野のたたら産業を統括した鉄山師、近藤家の巧みな経営手腕と歴史を紹介!


町のあちこちから水路を流れる水音が聞こえ、懐かしい佇まいを残す出雲街道、根雨宿。「たたらの楽校・根雨楽舎」は大鉄山師・近藤家住宅の向かいにあります。かつては近藤家の出店として、多くの手代さんや女中さん、遠方からの来客などが賑やかに集っておられた家屋で、現在は日野町公舎として在り、その1階にたたらの紹介パネルを掲出させていただいています。1階の奥には庭に面して畳の続き間、2階は3部屋を通して1空間としてギャラリーとしたり、また会合や食事ができるスペースとなっています。

この家屋の裏に別棟で「都合山たたら資料館」があります。

 

住所■鳥取県日野郡日野町根雨645番地  

開校期間■新型コロナの影響により、ただいま休館しています(本来は4月〜11月末 土曜日・日曜日 時間■10時~16時)

入館■無料 


根雨楽舎の主な展示内容


■玄関を入ると、三和土(たたき)の土間がずっと奥まで続いています。

入ってすぐ右には、「大宮楽舎」の展示概略が説明されたパネルがあり、それに続いて「相関絵図」〜「近藤家の沿革」のパネルが続きます。

 

■「たたら」に関わった人々、その相関図

かつての巨大産業「たたら製鉄」には、経営陣や技術職、そして原料となる砂鉄や木炭を供給する人々など、多数の力なくしては成り立たないもので、断片を語られてもなかなか理解しにくいものです。そこでそれらの関係が、おおきなイラストレーションによって一目でご覧いただけるようにしたのがこの「相関絵図」です。

この絵図は印刷物(ポスター)として別途販売しています。

 

■近藤家をはじめとした奥日野の鉄山師とその歴史

幕末から明治、大正にかけて、中国地方でも有数の鉄山師としてあった根雨・近藤家の歴史を中心に、日野のたたらの概要を解説。

 

■数字で見る「たたら」

たたらに用いた砂鉄や木炭の量、そこに必要だった土砂や山林、生産量や販売量、あるいはやりとりされたお金やその今日的価値など、古文書に記されたさまざまな「数字」をもとに当時の暮らしぶりなどを探ります。

 

 

■近藤家の苦悩と西洋鉄への対抗策

西洋鉄の流入で岐路に立った五代目当主、喜八郎の苦悩と打開策、合理化への取り組みと近代的たたら「福岡山鉄山」新設の経緯を追います。

 

■明治三十四年の文書に「たたら」を見る

近藤家の優秀な手代たちによって作成された沢山の文書。そこには当時の「たたら経営」の実態が事細かに記されて、「たたら」に携わった人たちの暮らしぶりを読み解くことができます。

 

■近藤家の「たたら経営」(歴代当主の紹介)

当時の3万人ともいわれる日野郡民の生活の根幹でもあった「たたら」。地域の暮らしを支え、また地域の問題解決に奮闘した近藤家歴代当主の仕事ぶりを紹介いたします。

 

■「たたら」が及ぼした地域への影響

「たたら」が村に打ち込み(新設)されるということは、今で言う「企業誘致」と同意でした。「金澤山たたら」に関わる取り決め書(議定書)から、当時の村、そして山内の暮らしぶりやさまざまな地域への影響を知り、また明治31年に俵国一博士によって調査された資料から、「都合山たたら」の様子を想像します。

 


奥座敷と庭

ちょっとしたお座敷ミニライブをしています。

墨書のパフォーマンスだってやってます。

「夏期講座」でたたらの勉強会や会合も。

縁側を介して庭が見えます。



2階スペース

約20名様までなら、食事会場として使用できます。予約をしておけば、すぐお隣の「そば道場・たたらや」さんのおいしいお蕎麦をご用意できます。