近藤家のたたら経営

〜143年にわたる歴史の概略〜

安永8年(1779)から大正10年(1921)にいたる、延べ143年にわたって手堅い鉄山経営を行ってきた「下備後屋」こと近藤家。江戸期のあまりにも激しい景気変動による鉄価乱高下に耐えきれず、ほとんどの鉄山師が次々と鈩を廃業し、それとともに関連文書も消滅してしまった中で、近藤家に残された膨大な文書は、私たちに往時の様子を知らしめてくれる貴重な記録です。

そうした膨大な文書は、近藤家が近代的な経理方法を旨として証票類を作成保存し、天保7年(1836)、大坂に開設した直販店と多くのやり取りを行ったことなどの中で作成されたものです。

それらの文書を長年をかけて整理し、読み解かれた故影山猛先生のご功績に、今更ながら深く感謝申し上げるとともに、ここでは先生のさまざまな論説を主に、出来るだけ平易に分かりやすく、近藤家のたたら経営の歴史について紹介させていただきます。

 

なお近藤家の沿革については、5代目喜八郎が明治39年に、鉱山監督官庁に報告した記録から影山先生も多々引用されています。



下備後屋の屋号で独立

現在に続く近藤家は、「備後屋(びごや)」の屋号から察せられる通り、享保20年(1735)〜 延享2年(1745)年頃、元々は備後国(広島県東部)から根雨に移ってきた商人系の家柄です。上隣に住居した備後屋と称した本家・元祖伝兵衛の孫(伝兵衛の息子)にあたる彦四郎が宝暦7年(1757)、分家して現在地に下備後屋の屋号で独立し、今の居宅は元治元年に二度目となる大改造をしたものです。

ちなみに、その向かいにある「日野町公舎/たたらの楽校・根雨楽舎」は近藤家の出店として建てられたものです。

 



安永8年(1779)谷中に初めて鈩を打ち込む

安永7年(1778)6月、分家初代の彦四郎が63才で没しますが、2代目喜兵衛がその翌年3月、日野郡山上村笠木の谷中に初めて鈩を打ち込み、それ以後堅実に経営を拡大しています。

当時製鉄場は1ヶ所でしたが、その構内に付属して錬鉄工場が建設されていました。「当時の事業は極めて幼稚なりしも、年々これを拡張せり」と後に5代目喜八郎は記しています。

その後3代目平右衛門の世となって、天保5年(1834)には経営規模を拡張して3ヶ所で稼業しています。

大坂鉄座の設置〜鉄価暴落の危機

安永9年(1780)、幕府によって大坂鉄座が設置され、全国の鉄類の出荷を鉄座に強制したことにより鉄価が暴落。その鉄価暴落の危機を切りぬけられたのは、近藤家の経営規模がまだそれほど大きくなかったことがむしろ幸いしていたのかも知れません。こうした影響で没落したと思われる下原重仲が「鉄山秘書」を著したのもこの頃で、天明7年(1787)に大坂鉄座が廃止となった後も鉄山師たちは、大坂、江戸鉄問屋の価格操作などにより苦戦を強いられることになります。



江戸回鉄御趣向への貢献

文化13年(1816)後半より文政6年(1823)まで、回鉄御趣向の際には、下備後屋は自家の全生産高の44.3%を江戸に向けて出荷。郡内総鉄山師の回鉄量の18.8%を占めており、近藤家は産鉄繰出しに大きく貢献。加えて地元鉄山師のまとめ役として鉄山師頭取となって江戸回鉄を支えました。

参考▶︎鳥取藩の鉄山政策

以後、郡内の政経両務を担うことに

文化14年(1817)12月には、因州鉄山師頭取であった手嶋政蔵(伊兵衛忰)の代役として近藤両家(下備後屋喜兵衛、上備後屋喜右衛門の2名)が選定されて回鉄御趣向を支えることとなり、これ以後近藤家は、郡内鉄山師の取りまとめに腐心することになり、文政13年には三代目平右衛門が大庄屋に抜擢されて、以降、明治初年まで日野郡の政経両務を強いられることになりました




天保7年(1836)、根雨本店直轄の鉄店を大阪に開設

日野郡内の他の鉄山師が次第に鈩経営を止めていく中で、近藤家が長く鉄山を経営し続けた大きな理由の一つには、大坂、江戸鉄問屋の価格操作に懲りて、天保7年(1836)に根雨本店直轄の鉄店を大阪に開設し、自家製品のみならず地元の他の鉄山師の産鉄販売委託も引き受けて、製品を全国に流通させ、次第に大坂鉄商人の販路をも凌駕していったことがあげられます。

 

大坂西区靫(うつぼ)南通四丁目に設けられた近藤家の大阪鉄店(大阪出店・大阪近藤喜兵衛商店・後の大阪支店・近藤鋼商店)は、伯耆・美作国を中心とする近藤家経営鉄山の産鉄を、商都大阪その他で売り捌くことを目的としていました。

従来山元の産鉄は、安永期創業の頃より、大阪在住の鉄問屋・仲買人に委託販売することが多かったのですが、(一時期江戸へ直送して販売=江戸回鉄)鉄商人たちの、地元鉄山師の意に反する価格操作に懲(こ)りて、根雨宿本店直接管理のもとに大阪に販売店を開設したのです。

大阪鉄店の設置以来、有能な鉄店手代たちの働きにより、それまでの大阪在住鉄問屋たちの販路を奪って、次第に関西〜東海〜東山〜北陸への道筋〜関東へと商圏を拡大し、それに支えられて地元鉄山も次第に産鉄量を増やして行くことになります。

大阪鉄店の設置は、販売業績を拡大したほかに、鉄店から数日ごとに絶えず伝えられて来る「鉄の需要見込」、「仲買人の望む鉄の標目(種類)と品質」、「同業者の売買動向」、「幕府・政府の経済政策」などの情報がもたらされ、それをもとに分析して根雨本店が各鉄山に生産調整その他の指示を出してこれに応えるという、出店と本店、本店と各鉄山との巧みな連繋がもたらされました。今風の言葉で表せば「マーケティングリサーチ」とでもいうのでしょうか。

 

これらの大阪鉄店からの書信は、数人の根雨本店手代によって手紙要点を転記した3冊の「大阪鉄店諸控帳」として残され、その記事内容には大阪鉄店手代に与えられた「掟(おきて)・締(しめ)し」などといった言葉が記入されて、当主五代喜八郎が直接記載、転記箇所も見られ、こうして近藤家内で密な情報共有がなされていたものと想像されます。


幕末の近藤家当主、四代平右衛門

幕末のたたら経営を担った近藤家当主は、出雲平田の岡新右衛家より養子に迎えられた平右衛門(1811~1873)で、慶応元年(1865)当時は54歳の駿才で、日野郡内の生木の不足を補うため勝山藩に働きかけ、作州で鈩の打込を始めました。

安政4年(1857)2月には勝山藩直営であった鉄山を買収し、砂鉄は伯耆国から運んで経営。また文久2年(1862)には、勝山の山田又三郎から1,000両で金杉山他の鉄山を買受けています。

慶応元年に経営していた鉄山は、伯耆国に7箇所、美作国に4箇所の合計11箇所で大鍛冶を併設したたたらを営み、伯耆国随一の大鉄山師として鈩産業従事者とその家族、日野郡の多くの人々の生活を支えていました。

また嘉永年間より、養父三代平右衛門と同じく大庄屋に任命され、後には鳥取藩内大庄屋首座となり、郡政への貢献も多大でした。

その子五代喜八郎は、「父平右衛門に至って益々事業の拡張を計りつつありしに、維新以来、海外貿易の開始と同時に洋鋼鉄輸入の事変に遭遇、敢(あ)えてこの影響は受けざりし」と、父の経営手腕もあり、流入し始めた西洋鉄についてもさほどの影響はなかったと記しています。


激動の明治、たたら経営を担ったのが五代喜八郎

近藤家五代目当主となる喜八郎は、7歳のときから根雨宿医師に皇漢の学を教えられ、14〜15歳の頃から祖父の事業を援(たす)けて鉄山の経営に携わり、以後58年間、明治43年(1910)に73歳で没するまで鉄山を経営しました。

若年の頃から昼時には仕事から帰って草鞋もぬかず、広大な台所の板間に腰をかけて飯をかき込み、またすぐに出掛けていく程の精励ぶりであったと伝えられています。

また、喜八郎は騎馬を好み、鉄山巡回の折や、大庄屋として月々の定日に郡役所に赴くときなど、馬を駆(か)り、奥日野に出掛けるときは生山の段塚家に寄り挨拶するのが通例でした。

喜八郎は常に矢立(やだて)を持ち、ふと気の付くことは夜中でも起き上がって記録に留める程の細心な配慮を持ち、一方で興に乗れば謡(うたい)を詠じる程、心の余裕を持っていたと伝えられています。

奥日野構の大庄屋となったのは元治元年(1864)、26歳のときで、この機に居宅が大改造されています。大庄屋として諸般の郡政とともに、絶えず郡民の活計について「内存書」をもって藩に直言し、また維新前後の凶作年には救米の放出と、貢納金の立替払などを行って、日野郡の政経に多大な功績を残しました。

 

この喜八郎の巧みで懸命な経営により、明治11〜12年(1878〜9)頃には、近藤家のたたらの生産高は明治初年の2倍に達しました。その後明治16〜17年(1883〜4)の大不況後は鉄山の合理化を図り、溝口に人力(手子)にかわる動力鎚(スチームハンマー)を導入した「福岡山鉄山」を創業し、また各鉄山に、番子複数名を必要とする「天秤吹子」に変えて水力による送風装置を導入し、省力化をもって生産コストを切り詰め、また明治26年(1893)には業界ではおそらく初めての「村下会議」を開いて、一子相伝とされてきたたたら操業のノウハウの共有を図るなど、次第に鉄価が下がるなかで、喜八郎の努力なくしては明治期の近藤鉄山経営維持は考えられませんでした。   ●電子紙芝居『喜八郎の決断』

また福岡山鉄山を創業したその頃、上菅の人向山から都合山への転山(移設)も行っています。 ●電子紙芝居『たたら場のお引越し』

 


明治21年、福岡製鉄所(福岡山鉄山)の創業

近藤家製鉄業史上最大の危機は、維新以来次第に西洋鉄の輸入量が増加し、また不況による物価下落で打撃を受けた明治16~17年です。

明治18年(1885)、五代喜八郎の手記(手控え)によれば、当時「鉄山ハ改良ナスカ、止ムルニトドマルカ」と、廃業を考えざるを得ないほどの切羽詰った局面に立たされていました。その対策として考えられたのは銑・鉧は従来の鈩の炉で生産し、鉄鋼は大鍛冶場ではなく洋式溶鉱炉で産出するという方法が可能かどうかでした。

 

「我が国鉱業界の父」とも称される小花冬吉氏等の指導も受けましたがその方法は実現せず、技術革新は大鍛冶場を機械化して人力(手子)を省き、また番子を要する天秤吹子にかわり、水力を利用して送風することで実現させることとしました。

 

合理化を目的に建設された職人100人を擁する最新工場、溝口町福岡製鉄所は明治21年(1888)2月に竣工。大鍛冶場の手子に代えて「蒸気機関(汽罐汽鎚)」を採用し、その機材を米子港から福岡に運ぶために道路や架橋を直してかかったという話も伝わっています。

鈩の送風機は当初「トロンプ」と言われる方式を採用しましたが「だまし風(強弱交互の風)」を送ることができず、また湿気を含んでいたことなどから最適とは言えず、結局、水車の回転をピストン運動に変えて送風するという方法に変えて功を奏し、その方法を明治24年、全工場に設置。数多くの技術上の困難を克服して、大正2年(1913)から同7年までを限ってみると、生産コストを下げてなお、近藤家全鉄山の総割鉄生産量の約8割を生産する程の主力工場となりました。


急増する鉄需要に応え、奥日野を守る

鎖国を解き、明治維新を迎えた日本は、国の新体制を作り、富国強兵と殖産興業を強力に押し進める必要がありました。交通や通信の整備などを急速に進める中で、釜石に官営の模範となる製鉄工場を作り、明治10年(1877)に2万5千トン足らずだった鉄の総需要が明治30年には10倍以上、27万トン強となりました。当初、鉄の生産〜供給量の3分の1程度は国産鉄で賄えましたが、明治30年ともなれば釜石鉱山の生産量を加えてもわずか1割程度。絶対量がまったく不足する中で、奥日野のたたらはそれでも存在感を示していました。



明治26年、異例の村下会議を開催

従来、鈩生産技術は秘伝として他人に語ることがありませんでしたが、和鉄生産の将来を憂い、できる限りの技術革新を進めようと、五代喜八郎が英断して明治26年(1893)、この初めての、異例とも言える会議を企画。酷暑期の鈩休業期間を利用し、各鈩生産責任者である村下を本店に召集しました。

会議では各村下が忌憚なく意見を述べ合い、議題が多岐にわたったという詳細な記録も残されています。

鉄需要の急増〜生産力の拡大

福岡製鉱所では試行錯誤を重ねて、次第に主力となる鉄板の生産量が増加し、商品化への軌道にのってきます。

砲兵工廠や横須賀造船所など政府関係筋からの注文が次第に多くなり、また商圏の空白地となりがちであった越前・越中・羽後など北国への拡販にも力を尽した結果、明治27年(1894)頃には近藤家経営8鉄山の合計錬鉄生産高は、暦年で最高の出荷量を記録しています。



政府関係筋の受注量増加と品質改良

政府関係筋からは厳しい品質規格が求められ、根雨本店で武信謙治が本格的に製鉄理論を研究し、その理論・指導に基づいて品質改良を重ね、造られた改良包丁鉄は、呉造兵工廠へ多く納められることになり、当主はその功績を認めて武信の息子の教育費を数年間補助したという記録も残されています。

雲州鉄師との競合〜雲伯鉄山組合の設立

また一方で政府関係筋からの需要に対しては、奥出雲の糸原・田部・桜井といった鉄師(鉄山師)と競合することにもなりましたが、明治28年(1895)には出雲鉄山師とともに近藤家も受注し、その後明治36年には「雲伯鉄(てつ)山組合」がつくられ、近藤・糸原・田部・桜井が共同で海軍造兵廠・横須賀海軍工廠、軍部各工廠へ納品することになりました。



命運を賭けた「低燐銑鉄」の生産

元来、中国山地の良質な砂鉄から作られる鋼は有害物質である燐の含有量が少なく、軍部各工廠からの引き合いがあったのはそのためですが、当時はスウェーデンが、自国の良質な鉄鉱石を木炭で製錬して低燐性の銑鉄をつくり、これを日本も特殊鋼材料として多く輸入していました。

そこで近藤家もこれに対抗して除燐工法を研究し、燐分0.015の銑をつくる事に成功し、明治41年(1908)頃には低燐銑鉄の製造販売を始め、大正3年にはそれまでの鋼押し工法を、すべて低燐性銑鉄工法に変更しています。

大正10年、いよいよ終焉の時を迎える

しかし明治38年(1905)に官営八幡製鉄所が本格稼働をし始め、その生産量を一気に増大させてきたのに伴い、大正8年(1919)春になると、洋鉄輸入の動きにより、銑鉄価格は一挙に3分の1に下落。鉄山経営上収支を伴わなくなり、六代喜兵衛は遂に、先祖伝来の鈩の廃業を決意せざるを得なくなって大正10年(1921)7月には、最後まで操業し続けた日南町谷中山と吉鈩・新屋山製鉄場が、生産を打ち切って、奥日野のたたら産業はその役割を終えることになったのです。



地域の存続へ向けて、「たたら」に代わる新事業への模索。

物事は始めるのは比較的易く、納めるのはとても難しいと言われます。 和鉄が価格面で西洋鉄に対抗できなくなり、近藤家は専ら品質向上に努め、低燐性銑鉄生産に 集中しますが、そこにも限界があり、鈩生産に代わる新事業を次々と興し、企業そして地域の 存続への途を探りました。その結果、永きにわたって日野郡経済の屋台骨であった「たたら」 廃業の影響を、最小限にとどめることができたのです。

●クロム耐熱煉瓦の販売

各冶金施設の高炉壁の材料として、クロム鉄鉱石から造られる耐熱煉瓦の需要が多くなり、近藤商店は明治 42 年頃から、大阪鉄店または中間業者を通して販売を行いました。クロムの採掘地としては、日野郡日南町多里の若松鉱山(明治 32 年頃発見)をはじめ、広瀬、豊栄の若杉などがありました。

●木酢や有機合成化合物の製造販売

若くから和鉄生産の将来性に不安を感じていた近藤家七代 寿一郎は、独自に「木材乾留による 酢酸製造の研究」を進め、大正 2 年、根雨地内(旧日野病院)に近藤木材乾留工場(就業者 150 人)を建設。郡内の生木を資源として醋酸石灰や木精(メチルアルコール)、木炭を生産。

大正 5 年には大阪堺市に近藤製薬工場を建設。酢酸石灰や木精、醋酸を生産し、これらは染色剤、食酢、医薬品(アスピリン)、人造絹糸、殺虫剤、ホルマリン、溶剤、無煙火薬(アセトン)などとして利用され、生ゴム凝固剤としてマレー半島にも輸出されました。

●輸入特殊鋼の販売

大正 10 年、大阪鉄店は住所を大阪西区岡崎橋に移し、その屋号を「大阪近藤鋼商店」と換えて、西洋鉄の輸入販売に専念。昭和 3 年には東京神田に「近藤鋼東京支店」を開 設し、高速度鋼・工具鋼・炭素鋼などの特殊鋼を「旭ハガネ」と銘をうって販売しました。

●製炭業

近藤家六代 喜兵衛は、手代やたたら従業者の失業を回避するために、従来、鉄山林として利用してきた山林、六千百町歩の生木を原料として、家庭用・工場用の木炭を生産・販売する事業を立ち上げ、大正 10 年、近藤本店林業部を設置し、郡内に数カ所の製炭所を開設して就業者 200 人を雇用。たたらと親和性の高い「製炭業」を強化・専門家することで、多くの従業者の離散を抑えることに腐心しました。