鳥取藩の鉄山政策

鳥取藩は鉄山の打込みや、鉄穴流しその他の事業に対して許認可を行い、また幕府が大阪に「鉄座」を設置して以降の不安定な鉄価格を改善するための「海路為替回漕仕法」(寛政12年~1800)、「鉄鋼銑江戸直回仕法」(文化13年~1816)といった流通に関わる制度を設けたり、境鉄山融通会所を設置(天保6年~1835)するなど、産鉄の流通や販売を促進する政策を進めました。


鉄山開設、鉄穴流しなどの許認可

江戸時代全般を通じて鳥取藩がたたらに関わる諸事業に許認可を与え、『鳥取藩史』や『在方諸事控』その他各家の古文書からその歴史を探ることができます。特に鉄穴流しについては、下流域に大量の砂が流されることから紛争の原因となることが多く、藩はその調整に苦慮したようです。

 

天正年間(1573〜1592)、安田家(三朝町穴鴨)、この頃より鉄山経営を行う(同家文書)

元和元年(1615)6月、安田家(三朝町穴鴨)、東伯耆代官山田五郎兵衛より鉄山経営を仰せ付けられる(同家文書)

寛永11年(1634)4月、安田家(三朝町穴鴨)、池田光仲入封にあたり鉄山経営の再免許を受ける

明暦年間(1655〜1658) 旧家以来の久米、河村二郡の採鉱製鉄が禁止となる(鳥取藩史)

元禄8年(1695)3月、若桜の吉川村で砂鉄流しの許可願いが出される(三百田家文書)

元文5年(1740)8月 鳥取藩、日野郡の登り荷(美作路より搬送分)の駅馬利用を命じる(在方御定)

元文5年(1740)11月、鹿野の河内村で鉄山開設の願いが出される(在方諸事控)

寛保元年(1741)、湯関村(関金宿)の平兵衛が泉谷鉄山の経営を認められる(在方諸事控)

文政6年(1823)8月、廃砂流出による出水防止のため、砂鉄採取取締令が出される(在方諸事控)

文政13年(1830)、若桜の吉川村で砂鉄流しの許可願いが出される(三百田文書)

天保7年(1836)7月、久米郡下田中、田内の両村、河村郡大谷村ほか三村の鉄穴流しの永代差し止めを嘆願する(山枡家文書)

天保10年(1839)7月、久米郡円谷村ほか六ケ村、河村郡加谷、大谷両村の鉄穴流しの差し止めを嘆願する(山枡家文書)

弘化2年(1845)2月、久米郡円谷村ほか六ケ村、河村郡田代、柏、大谷三村の鉄穴流しの差し止めを嘆願する(山枡家文書)

弘化4年(1847)4月、久米郡円谷村ほか六ケ村、河村郡田代、柏、大谷三村の鉄穴流しの差し止めを嘆願する(山枡家文書)

文久元年(1861)、日野郡内の鉄穴流し場半減令が出される

 

御手山制度と奥日野鉄山の管理

元禄7年(1694)10月、鳥取藩はたたら全体を把握し運上銀を課するため、日野郡鉄山を鳥取藩の御手山とし、鉄奉行、鉄山目付をおき「御手山制度(鳥取藩直営・官営の鉄工業)」を始めました。郡内には鉄問屋があり売買運搬を担ってはいましたが、この制度により民間の事業意欲が損なわれ、次第に衰微してきたために、元禄11年(1698)には取り止めとなり、以後たたらの稼業は鉄山師の願書(請け文書)のみで許可されるようになりました。

鳥取藩によるその後の日野郡のたたら政策は、天保安政(1830〜1860)の頃には「鉄山取締役」が設けられ、奥部は大宮村段塚家、口部は緒形家、近藤家がその任を果たす形で行われたと『日野郡史』には記載されています。

 

鉄山の開廃業と運上銀

鉄山師はたたらや鍛冶などの運上銀を藩に納めて事業を行いました。

たたら大鍛冶の打込(開業))を願うときは「請願書」、廃業は「揚願書」、他領での打込は「出職願書」で許可され、運上銀も産鉄量に関係なく、たたらは銀120匁、大鍛冶同 60匁で済み、簡単に事業に参入できたので、新規参入が制限されていた出雲から越境して、奥日野で打込を行う鉄山師もありました。好況期には郡内に大小20以上の鉄山師が群雄割拠したが、不況ともなればたちまち家督を失うこととなりました。

※運上とは、近代の日本における租税の一種で、銀貨をもって納付が行われる場合には運上銀と呼ばれました。

 

鉄製品の流通政策

江戸幕府の「鉄座」開設による影響

江戸時代中期、老中・田沼意次は悪化する幕府財政の立て直しを図るため、農業主義だった政策から、重商主義の政策へと転換する中で、安永9(1780)年、銀座加役として真鍮座を設け、大坂には「鉄座」を設置して、鉄製品の自由売買を統制し、一元取引を求めました。それまで鉄は競争入札によって結構高い値で売買されていましたが、一元化されたことによって、鉄問屋同士で競争して値を釣り上げる必要がなくなったことで、安値安定から暴落することととなり、その影響で多くの鉄山師が没落しました。

「鉄山秘書」を表した下原重仲が、鉄山廃業を迫られたのもそのためだと言われ、奥日野の鉄山師も少なからぬ影響を受けました。

 

天明元年1781 大谷(三朝)小峠鉄山を経営した日野郡宮市の下原権右衛門(重仲の父)、この地で死去する

天明4年1784 日野郡宮市村の下原重仲が「鉄山必用記事」を著す ※下原重仲、「鉄山必用記事」について詳細はコチラ

 

「鉄座開設」は鉄山師だけでなく、大坂の鉄問屋や職人たちにも大きな脅威を与えることとなり、幕府はそのやり方を改めて不平を緩和しようと努めましたが、結局は天明7(1787)年9月、老中・松平定信による寛政の改革の際、鉄座および真鍮座は廃止となりました。

しかしこれを契機に、大坂の鉄問屋による価格操作が顕著になり、鳥取藩はさまざまな鉄山支援策を講じることになり、また鉄山師もそれぞれに対抗措置を講じることになります。


1)海路為替回漕仕法

寛政12年(1800)、鳥取藩は鉄山支援策として「海路為替回漕仕法」を設け、日野郡産鉄を米子に集めて為替金を交付し、鉄買船に売り渡して全国へ流通させることとしました。

2)日野郡内産鉄江戸回漕方式

文化13年(1816)6月、大坂鉄問屋の価格操作に対し、奥日野の鉄山師の嘆願に応じて、鳥取藩は日野郡産鉄を江戸に流通させる方策を講じました。(〜文政6年)

しかし江戸鉄市場においては価格が低迷し続け、回鉄に応じる鉄山師たちは経営上の苦況を迫られましたが、藩はそれを無視してまで回鉄を強行。その意図は明かではありませんが、藩は国内産物他国売の商品を正金銀獲得の手段とし、中でも産鉄他国売を有力な手段としていたことから、大坂御借入銀返済と、江戸鉄敷金2,500両の藩への融通、金銀正貨の獲得といった藩の財務政策を背景としたものだったのではないかと考えられています。

 

そのきっかけとなった嘆願書

文化12年(1815)3月、鉄山師17人、村役人18人の連名を以て、鉄価立て直しの方策として嘆願書「鳥取藩大坂表御蔵屋舗趣向御立願」が、段塚常右衛門、手嶋伊兵衛(共に郡大庄屋)宛に差し出されたのがそのきっかけです。その内容は、諸国に比べ、大坂表鉄問屋仕切価格が低いので、その対策として鳥取藩によって「鳥取藩大坂鉄会所」を設立して鉄価の立て直しをはかって頂きたいと言うものでした。

同年4月、在吟味役平井金左衛門(後の鉄懸り重役)が藩の意向を受けて、緒形長蔵(後の鉄山元締役)及び他の1人を連れ、人足5人と共に江戸に出府。6月には江戸鉄問屋との回鉄仕法を取りまとめて帰着し、翌文化13年(1816)、その嘆願が「郡内産鉄江戸回送方式」として実現し、文化13年後半より文政6年(1823)まで(最終江戸回鉄は文化7年1月)続けられました。

 

その実際、8年間の経緯

回鉄仕切価格の決定は、地元より鉄山師代表である江戸回鉄支配人が出府、江戸御屋敷御趣向役人と江戸鉄問屋の三者が仕切会席を開きその合意でなされました。しかし各鉄山師の出鉄する数十種に上る多様な標目(商標)ごとに、更にそれを上中下の品位に分けて決めるので大変な手間を要し、出府回鉄支配人の江戸滞在は3~4ヶ月に及ぶのが通例であったようです。

 

●文政元年(1818)も割鉄・鋼仕切直段は低迷

江戸仕切会席の模様/殊の外不景気のため江戸鉄問屋も当方の言い値に同意せず、私共は少しも値下げは承服出来ぬと返答。

 

 

●文政元年(1818)3月10日付で郡内鉄山師宛に、大坂鉄仲買人行司から書信

江戸回鉄御趣向実施以来、伯耆国のみならず他国の産鉄まで大坂への出荷が減少し難渋しているので、従来の如き出荷を大坂鉄問屋と一度熟談してほしいと訴え、苦境に陥った大坂の仲買人の心境が述べられている。しかし後日、大坂鉄仲買への対応は何もされなかった。

※この頃、流通構造の変化により、諸物資の大坂入荷量は正徳期(1711)以降漸減し、特に化政・天保期に著しく減少。その量は正徳4年を100とすれば文政年間70、天保11年(1840)には39まで減少したとある。

 

●文政2年(1819)

この安値をうけて同2年3月には、大宮村の鉄山師福市屋(青砥)孫左衛門から両頭取宛に滞貨買収を願ったが、資本力のない鈩師は鉄山経営が次第に困難となって来た。

 

●文政3年(1820)には諸国に値動きがあったが江戸仕切は回復の動きはなかった。

江戸鉄問屋行司から江戸屋敷国富武左衛門宛に出鉄を促す依頼状。鉄価下落で先頃仕方なく回鉄した鉄山師も今は出鉄を拒否し、下位の鉄は揃い兼ねる旨の返答あり。先の江戸鉄問屋の注文を無視し、藩回鉄役人の仲介で漸く出荷に応じたことは、鉄価不振の為地元鉄山師達は安値の回鉄を渋り始めた事を意味している。

 

●文政4年(1821)正月、鉄山師14名の連名で元締役に差出した願書

今回米子での御買上げも是非北国相場で買取ってほしい。猶今後地元出来鉄の内6割は地元鉄山師の考えで個人相互の相対売買をさせてほしい。回鉄御買上げの4割も米子船手相場で買上げてほしい、とあるが、これも江戸回鉄が次第に負担となりつつあることを意味するものであろう。

 同年、地元の残鉄地払価格との差が大きく、回鉄は余程不利な状況となった。

 

●文政5年(1822)9月に福市屋孫左衛門が締役に差出した書状

私の産鉄は元来北国売りのみで大坂為登は1束もなかった。故に岡山・大坂へは私の名前も知らぬ問屋が多く捌方困難と判断したからである。今回他の鉄山師並に回鉄せよとの事で、米子滞鉄380束余を回鉄としたが、その仕切価格は「以之外下直」であった。そこで、これ以上の回鉄を御断りしたところ締役に呼出された。「何卒此後者御趣向御免被仰付」下さるよう、猶「此以後私自力を以相稼候様奉願上候」と歎願しているが、これが当時の鉄山師達の心情とも考えられる。

 

●文政6年(1823)

回鉄御趣向も終りに近く、4月には多里宿野組山鉄山師利右衛門から締役宛に、米子鉄問屋預けの私鉄150駄を当節相対売すれば、1駄230匁になるとして地払を歎願したが許されず、この年の暮れには「手元差詰鉄山相続不仕」となり、同宿伝右衛門と共に多額の内賃金未払の儘高額の借金を残して潰れ(倒産)に及んだ。この件の処理に両頭取も困惑した。

 

●文政7年(1824)8月、御趣向回鉄の終ったこの年には、鉄山師10人より積立残銀の返還要求。鉄山師が回鉄内賃金と販売代金の差額(過金)3,463両を早く支払ってほしい旨の嘆願書を出している。

 

3)境港鉄山融通会所の設置

天保6年(1835)日野、会見郡産鉄を境港に出荷するため、鳥取藩は境鉄山融通会所を設置しました。

それまで米子の鉄問屋に鉄の流通を依存するも、販売が円滑に行われず、また越境して安来港からの出荷を行うも資金の回転が滞ることが多く、大阪や江戸の鉄価低迷もあり、経営に巨額の資金運用が求められる日野郡の鉄山業は苦境にありました。

そこで日野郡(日南町)阿毘縁村の松田屋彦兵衛らの鉄山師や庄屋らは藩に、鉄を境港に集積し、自ら販売をさせてほしいとの請願を行いました。それにより天保6年(1835年)に設置されたのが鉄山融通会所です。この会所の設置により藩の倉庫に製品を納入すると即為替を受け取ることが可能になり、資金の回転も円滑になりました。

鳥取藩としても重要な外貨獲得の港湾として位置づけ、嘉永元年(1848)には銀行業務も始まり、金融と商業(港湾)の基盤が出来上がって、半農半漁の村は港町として急速に発展し、境港は現在の環日本海交流の拠点という地位を得ることに繋がっていくのです。

 

文久3年(1863)に山陰一の砲台がある台場が建設されたのは、境港の地政的な重要性を物語っています。現在の境港の環日本海の中心地、漁業の基地へと至る成長はまさに、天保6年(1835)がターニングポイントになっているのです。

電子紙芝居「伯耆国の流通革命」


近藤家、大坂に直売店を開く

出雲松江藩の鉄山政策

鳥取藩が生産に関しては大きく介入せず、たたらの開業も廃業も容易に許可し、その結果、好況時には大小の鉄山師が割拠することとなった一方、鉄山師が経営難に陥っても藩からの救済の手立ては殆どありませんでした。これに比して隣の出雲松江藩は鉄の専売制を敷き、いわゆる御三家を中心とした組合による独占制を以て、たたら政策を執りました。

松江藩も当初から財政難で、財政再建のために鉄・木蝋ろう・朝鮮人参などの専売制を敷き、たたら製鉄については九つの資産家を生産者として指定。田部・桜井・絲原の御三家を中心にその生産を支援し、組合による独占制度で製鉄施策を執りました。

 

◆因みに奥出雲の田部家では、明らかに3度の経営破綻があったことが伝えられていますが、その度に米や山林を提供するなど、藩の取りなしで破綻をまぬがれ、藩はこうした形で有力鉄山師を庇護しています。反対に、藩主が鉄山師に茶碗などの贈答を請うこともあり、藩と鉄山師は強い互助関係にあったようです。