近藤家文書「孝行者抜擢書」

父を尋ねて奥州へ 倅 恵助の物語

これは近藤家文書を研究しておられた江府町洲河崎の、故・影山猛先生の著書『たたらの里』の中で紹介されている一節で、奥日野郡大庄屋・近藤家4代目当主・近藤平右衛門によって「孝行噺」として書き留められていたものを、わかりやすいように少し書き直してご紹介するものです。

 

時は江戸時代天明の頃、たたら経営に破綻を生じ、失意の末、郷里の日野郡を離れ、放浪の旅に出かけた父を探して、倅の恵助が十数年後、やっとその父を連れ帰ったという物語・・・。

恵助が四歳の時、父が故郷を離れ、母が離縁したため、恵助は伯母に育てられましたが、父を恋い慕う気持ちを抑えきれず、十七歳に成長したとき父の行方を捜し、本州最北端の奥州でついに父に会うことが出来ました。しかしその道中では、訛(なま)りで言葉も通じず、また父と子は長年会うことがなく、互いに顔も分からなかったなどの苦労が語られています。

父吉兵衛は何処に

恵助は口日野郡宮市村、吉兵衛の倅で幼名を熊蔵と称し、母は奥会見郡吉定村、渡辺兵助と言う百姓の娘で、子供は兄の寿太郎と二人・・・、親子四人で暮らしていたそうです。

吉兵衛は元来、かなりの財産があって、たたら経営などしていましたが、不運が重なってゆとりがなくなり、44歳の時大阪へ上り、かねて懇意にしていた取引先へ資金援助を頼みましたが思わしくなく、堺筋の川崎屋源兵衛と申す者の家でいろいろ世話になり、旅立ちの用意をして諸国遍歴に出かけ、3年目に奥州外ヶ浜三馬屋浦(みんまやうら)、今別村と申すところで留まっていたそうです。

奥州に留まること、十年

そこは家の数が凡そ130軒ほどあるところで、本覚寺と申す大きな寺があり、この寺へ日夜通っていたところ次第に寺と懇意になりました。和尚はいたって博学の人でしたのでその弟子となり、剃髪(ていはつ)して法名(ほうみょう)を吉蓮と改めましたが、和尚から「今別村に観音堂と申す庵があって、御朱印付き石高三俵の寺領が御寄付になっている。この庵は本覚寺の末寺だから、ここに居住するように」と懇ろに取り扱ってくれたそうです。

 

勿論村の役人方も同意でしたので久しく逗留(とうりゅう)し、近くの村の子供を集めて習字を教え、書物を読む稽古をさせ、村人たちが至極大切に取り扱ってくれたので、48歳の年より58歳までの10年近く、この村に留まっていたと聞いています。

父からの書状

子の恵助が四歳の秋、父親の吉兵衛は家を出、母も12年の内に離縁して吉定村の実家に帰り、恵助は俣野の伯母方へ引き取られ成長したそうです。恵助は、父の行方がわかれば何国までも尋ねて行きたく、いろいろ先祖の供養を行って神仏へ祈りを込め、十七日間氏神の社へ兄寿太郎とともにこもって祈願していたところ、不思議にも旅の僧が一人やってきて、「浜ノ目港津より書状を頼まれたから届けに来た」と宿元へ投げ込み、立ち去ったそうです。書状には「大坂堺屋利助の船便で奥州外ヶ浜三馬屋浦より出す」とあり、開封してみたら右三馬屋浦今別村へ逗留(とうりゅう)している旨、認めてあったそうです。

恵助、出立の準備 〜大阪から奥州へ 

恵助は十七歳の春、父を尋ねて奥州まで旅立ちの用意をしましたが、何分幼いときに分かれているので、いざ出会ったときに親子であることの証拠になるよう、先祖代々の戒名・俗名を書き写し、近隣の百姓の書状などをもらうと共に少々旅費を調え、他国へ行く願いを差し出して許されたのでいよいよ旅立ちました。

大坂まで行き、そこから肥後の国のお殿様が江戸に向かわれるところでしたので、荷物持ちとして雇ってもらって江戸に到着。すぐに出発し、奥州白石経由で順々参りましたところ、道中で気分がすぐれなくなって旅費も使い果たし、人とも見えぬような身形(みなり)になり、多少家々が並んでいる村では金銭や米を恵んでもらって旅を続けました。

恵助、危機一髪!

南部藩のお殿様が治められる南部郡で、山中五里ばかりある峠へさしかかったところ、お役人が見回りをされているところに出くわし、「何処の国の者か」とお咎(とがめ)めになりましたので、「伯耆国より親父を尋ねて奥州外ヶ浜まで参ります」と申し上げましたが、「近年悪党どもが徘徊して、切り取り強盗を働くので、それとおぼしき者を見つけ次第切り捨てるようにとの命令が出ているから、見逃すわけにいかぬ」と、恵助は縄を掛けられました。そこで詳しい事情を申し上げ、持っている書類を差し出しましたが一向にお聞き入れなく、既に切り捨ての用意をされていたようで仰天し、いろいろ氏神・荒神へ祈願しました。

そんな時、折良く僧侶二人が通りかかりましたので大声で助けをお願いしたところ、言葉もよくわかる僧で色々事情を聞かれ、その上でお詫びをしてもらい、一命ようよう助かり、誠に万死を免れたとのことです。

今別村へ着いたは良いが

そこでひたすら三馬屋浦へ向かって急ぎ、九月中旬、今別村へ到着。分限者らしき家へ立ち寄って父吉兵衛の身上のことを尋ねました。しかし訛りで言葉が通じないので紙に書き付けて差し出したところ、すぐにその家の主人・源右衛門が同道して、父のいる庵寺へ案内してくれたそうです。

しかし長旅の疲れもあり、人とも見えぬほどみすぼらしい姿が至って見苦しかったので、倅の熊蔵だと言っても父は一向に信用せず、持参の書類などを見せているうちやっと少しずつ納得し始め、それからこの庵寺に逗留し、何かと語り合っているうちに親子であることがやっとわかったそうです。

ふたりで帰郷、そしてその後

それから翌年一年間そこに逗留し、十九歳の年に父吉兵衛と一緒に諸国の神社仏閣を拝礼しながら同年冬、本国へ帰ったとのことです。

父は兄の寿太郎が養い、吉兵衛、法名吉蓮は長寿を保ち、文政411月、84歳で病死したそうです。

恵助は次男でしたので黒坂村へ婿養子になり、家内睦まじく暮らし、安政元年2月、80歳で病死しました。

 

こうした恵助のふるまいは、日野郡中の多くの人々がよく知っているほどの親孝行な心がけですので、これまでにも御申し立てすべきでしたが、何故かそのままとなっていました。死後にはなりましたが、多くの人の手本にもなればと考えてご報告いたします。

 

万延元年(一八六〇)七月

(奥日野郡大庄屋) 近藤 平右衛門

エピローグ

この物語の父吉兵衛とは、申し上げるまでもなく、日本製鉄史上もっとも優れた経営・技術上の著作とされる『鉄山必用記事〜鉄山秘書』を、江戸時代天明のころ著した、日野郡宮市村下原(森)重仲のことで、この11月5日がちょうど没後200年となります。

倅恵助は、戸籍上では重仲の三男(長男は早世、次男は邦光)で、黒坂、森家を継いだ才覚のある、有為の人物でした。