近藤家の経営理念

古くより奥日野では多くの鉄山師を輩出しましたが、そのほとんどは自由競争の下で淘汰され ました。その中で唯一、近藤家のみが各年代とも順調に生産量を増加させて、永く鉄山を経営し続けられたのには確かな理由があるはずです。その基となった経営理念を考えてみましょう。

合理的経営

●近藤家は激しい景気変動の中にあって、好況期だからと言って経営規模を著しく増加させる ことなく、また不況期にあっても産鉄高を減少させず、安定した経営を原則とした。

●天保 7 年に根雨本店直轄の鉄店を大阪に開設して生産販売の一貫体制を敷き、他の地元鉄山 師の産鉄販売委託も受けて、次第に大阪鉄商人の販路をも吸収した。併せて、大阪からもたら されるさまざまな情報を以て、経営戦略を講じた。

●年を追うごとに諸簿冊の整備をはかり、冗費(無駄な費用)を抑えるなど確かな計数管理を 是とした。

●根雨本店から半径十キロメートルを目処として鉄山を集中させ、効率的経営をした。一方、 郡内の生木不足を補うため岡山の勝山藩に働きかけ、作州でたたら打込を行った。

●各鉄山における生産技術の革新を計るために、絶えず鉄山間の職人異動交流を実施。明治二 十六年には画期的とも言える「村下会議」を行っている。



鉄山式村をはじめ、地域との協調

●外的には村方人別の就労につとめ、また氏神祭など村の行事への参加、水損修復など地域と の一体化をはかるとともに、内的には傷病保障費、老令による離職者への扶助など生活・社会 扶助の費用も惜しんでいない。

●文化~文政の「江戸回鉄御趣向」以後、地元鉄山師のまとめ役として鉄山師頭取となり、幕 末より明治初年にかけては没落しつつあった鉄山師・郡内旧家・藩政期旧在役人の救済に当た るなど、地域経済界のリーダーとして在ることを是とした。

●大庄屋拝命後は政経分離をはかるために、鉄山師名代(根雨宿の岩城傳三郎一~二代)を立 て、公職にも力を注いだ。

傑出した経営者と優秀な手代

 

●幼年より主要会議に出席させ、あるいは鉄山回りを義務付けるなどの配慮をし、鉄山師とし ての嗣子(跡継ぎ)の育成に力を注いだ。

●支配人・手代も雲州・作州などから広く人材を求め、優れた人物が多かった。




激動の時代を生きた下備後屋・近藤家当主

七代当主 近藤寿一郎の記述から

大正一五年一月、七代当主 近藤寿一郎が『日野郡における砂鉄精錬業一斑』において、

「数百年続いた豪商や旧家であっても、この波乱の世に棹さす術を誤って破産するものが少なくはないが、あたかも我が家の当主は、私の祖父 喜八郎の代で性質英邁で(才知がとても優れていて)、思慮がとても緻密であったので、難問を突破して先祖が始めた事業を継ぐことができた」

と、こう記すように、近藤家歴代当主はその経営理念を継承しつつ、政経両務に手腕を発揮して激動の時代を乗り切っています。

 



初代 近藤彦四郎

現在の近藤家の上隣にあった「備後屋」と称した本家元祖伝兵衛の孫(伝兵衛の息子)に当たり、宝暦9年(1759)に分家して、現在地に「下備後屋」の屋号で独立。安永 7 年(1778) 63 才で没す。

二代 近藤喜兵衛

安永 8 年(1779)3月、伯耆国日野郡笠木村、字谷中山(日南町)において初めて製鉄の事業を興した。付属する錬鉄工場もその構内に建設。また鳥取藩の「江戸回鉄御趣向」実施に際しては、地元鉄山師のまとめ役として鉄山師頭取となった。文政 8 年(1825)没す。



三代 近藤平右衛門

文政13年(天保元年/1830)大庄屋に抜擢され(当時51 歳)、天保5年(1834)には鉄山を拡張して三カ所とする。

天保7年(1836)には大阪在住の鉄問屋・仲買人による価格操作に対抗して、 大坂西区靫(うつぼ)南通四丁目に、根雨本店直轄の大阪鉄店(大阪出店・大阪近藤喜兵衛商店・ 後の大阪支店・近藤鋼商店)を設け、販路の拡張を計った。嘉永5年(1852)には、さらに鉄山を五カ所に増設している。

四代 近藤平右衛門

出雲平田の岡新右衛家より養子に迎えられ、嘉永年間には 40 代で養父三代平右衛門と同じく大庄屋に任命され、後には鳥取藩内大庄屋首座となり、郡政にも多大な貢献をする。

幕末の激動期、慶応元年(1865)には伯耆国に 7 カ所、その後、美作にも鉄山を 4 カ所設け、合計 11 カ所を経営して、名実ともに伯耆国随一の大鉄山師となり、政経両務にその手腕を発揮した。

明治6年(1873)62 歳で没す。



五代 近藤喜八郎(1838〜1910)

幼名は吉孝。7歳のときから根雨宿医師に皇漢の学を教えられ、14〜5歳の頃にはすでに祖父の事業を助けて鉄山経営に参画。

元治元年(1864)、26歳の若さで奥日野構の大庄屋となり、つねに郡民の活計について「内存書」をもって藩に直言し、また維新前後の凶作年には救米の放出や貢納金の立替払をするなど、地域にとって多大な功績を残している。

喜八郎は若年より騎馬を好み、鉄山巡回の際、あるいは大庄屋として月々、郡役所に出向くと きなど馬を駆って、日南に出掛けるときは生山の段塚家に寄り、挨拶するのが通例であった。また仕事となれば、昼時に帰っては草鞋もぬかず、広大な台所の板間に腰をかけて飯をかき込み、息つく間もなく出掛けていく程の精励ぶりで、常に矢立(やだて)を持ち、ふと気の付くことは、夜中でも起き上がって記録(「手飛可恵」など)に留める程の細心な配慮を持ち、興に乗れば謡(うたい)を詠じる程の余裕を持っていたと伝えられている。

 明治 6 年(1873)、35 歳で当主となったこの喜八郎の巧みで懸命な経営により、明治 11〜12 年頃の生産高は明治初年の 2 倍に達した。明治 16〜17 年の大不況後には、たたら存廃の決断を迫られたが、鉄山合理化を図って存続する途を選び、近代的な動力鎚を装備した福岡山鉄山を創業。また各鉄山には天秤吹子に換えて水力送風装置を導入してコスト削減を図り、あるいは異例の村下会議を招集して技術革新を進めるなど、次第に鉄価の下がる逆境の中で、この喜八郎の努力なくしては明治期の近藤家の鉄山経営維持は考えられなかった。明治 43 年(1910)、73 歳で没す。

 注)矢立とは、墨壺と筆を一つの容器におさめたもので、腰にさして携行した。

 参考▶︎電子紙芝居『喜八郎の決断』


六代 近藤喜兵衛

大正 7 年に設立された日本クロム工業株式会社(大阪西区)発行株の 5 分の 1 にあたる 800 株を取得するなど、西洋鉄に押されて苦戦する中で、たたらに代わる新規事業を模索。

銑鉄価格 が一挙に 3 分の 1 に下落した大正 8 年には、先祖伝来の「たたら」廃業を遂に決意せざるを得なくなった。

廃業後、地元鉄山の多くの従業員の救済に腐心。奥出雲のたたら従業員たちの多くは、九州をはじめとした炭鉱などに転職することを余儀なくされたようだが、日野の製炭業はその後順調に発展し、この措置によりたたら廃業による大きな労働移動はさけられ、さしたる混乱は生じなかった。



根雨のまち並みを見下ろす高台に建つ瀟洒な建物は、旧根雨公会堂。7代当主寿一郎が根雨町(当時)に寄贈、昭和15年に落成し、コンサートホールや映画館、時にはダンスホールなどとして多くの方に親しまれました。

七代 近藤寿一郎

幼少の頃より、茶席や重要会議に同席。15 才のときには8つの鉄山を巡回し、嗣子(跡継ぎ) としての立場を強く自覚し、故に和鉄生産の将来性に対して少なからぬ不安を抱いていた。

16 才で大阪官立工業学校(阪大前身)を中退するが同年、釜石製鉄所を見学し、そこに見た所感 を「奥州漫遊所見」としてまとめ、八幡製鉄所の視察にも出向いている。

明治三十三年(1900)、 20 才のとき木酸製造の研究に取りかかり、大正 2 年(1913)、根雨に近藤木材乾留工場を建設して事業化に踏み切るがその間、生木からメチルアルコールやアセトンなどの有効物質を抽出するための実験を自ら重ね、菅福山鉄山で実験した際にはアセトンによって蒸留汽缶が破裂事故を起こしたこともあったと言う。

根雨の工場を皮切りに、大正 5 年には大阪堺市に近藤製薬工場を建設、昭和 2 年、岐阜県大垣市に日本合成化学研究所を設立し、翌年、日本合成化学工場を誕生させて製品を海外に輸出するなど、スケールの大きい経営者であった。