呼子山たたら跡

江戸時代から3回、操業された呼子山

沿革

『伯耆志』や『日野郡史』にも記載が見られる呼子山。近藤家文書によると、文化10年(1813)〜文政元年(1818)に備後屋喜兵衛(下備後屋)、天保13年(1842)に福嶋屋吉左衛門、明治7年(1874)〜明治16年(1883)に近藤喜八郎(下備後屋)がこの場所で経営しています。
呼子山は現在はキャンプ場として整備され、川は地下に埋設されてしまい、また建物跡は整地されて広場になっていますが、山の稜線などはそのまま残っています。

※キャンプ場への立ち入りは禁止されています。


たたらの痕跡を探せ!

現在はキャンプ場となっている呼子山のたたら跡。

一見、普通にある山裾の広場と雑木林、そして小さな川が流れる風景なのですが、よく注意してみると昔ここが「たたら場」であったというその痕跡を見ることができます。

 

いずれのたたら場跡でも、製鉄や鍛治仕事で出てくる小さな穴が空いた黒い塊、通称「カナクソ」と呼ばれる鉄滓(てっさい)がたくさん見られ、ここも例外ではありません。 ♪カナクソの唄

管理棟の右側には製鉄の守護神とされる金屋子神が祀られている小さな祠があり、その前には石碑も建てられていて、「明治13年(近藤家紋章)願主・村下常平・栄一・治右ェ門、外鈩内方中」と書かれ、村下をはじめたたらの関係者が寄進したものだと解ります。

また管理棟の前には製鉄の中心施設「高殿」が建っていた平坦地があり、縦横約20m、高さ約10mの大きな建屋が建っていました。この台地は一部削り取られていますが、そのためにたたら炉の地下構造の一部、「小舟」と言われる除湿・排気口が露出しており、直径30cmくらいの小さな穴が見えます。

周り三方を囲む山は「壁山」と言って、たたら場は強風を防げる立地を選びました。加えてこれらの山は、砂鉄を含む風化した花崗岩からなっており、管理棟の裏側には露出した地層が見られます。

たたら場(山内)や製鉄施設がどのようになっていたか、その例を示していますので、ぜひご覧ください。

かつての施設配置図



日南町大宮周辺マップ

全国に名を馳せた「印賀鋼」の生産地

ここ大宮周辺は昔から、「印賀鋼」として全国に知られた良質の鉄を産した地域です。鉄の質を決定する1番のポイントは、採取される砂鉄の質。同じ「真砂(まさ)砂鉄」と呼ばれる中でも特に優れていて、昔の村下(技師長)は経験的にそれを知っていたようです。

周辺の施設など