『農暇拾穂集』について

この「歌集」には、重仲の生涯の謎を紐解く多くの手がかりが!!

「伯耆文化研究 第24号」で発表された高橋章司氏の論文紹介

2021年秋の「第1回 下原重仲”恭敬”フォーラム」から約2年。あの時「鉄山秘書」との関係について「鉄山要口訳」を論じていただいた高橋章司氏は、その後も調査研究を続けられて、「伯耆文化研究ー第24号」に「『農暇拾穂集』にみる下原重仲の実像」と題してその成果を発表されています。

今まで下原重仲(じゅうちゅう)は、わずかな資料でのみ語られ、その生涯は多くの謎に包まれてきましたが、この度、氏自らが日野町黒坂の森家で再発見された重仲直筆の歌集『農暇拾穂集』は、重仲の生涯の謎を解く手がかりを多く含んでいるとのこと。

言い換えればこの歌集は、生涯を綴った「日記」のような存在で、一首一首を丁寧に読み解いていけば、重仲がいつどこで何を考え何をしていたか?が紐解いていけるということのようです。

それに加え、重仲が出奔した奥州での現地調査を重ねると、今までの重仲に対する評価を大きく覆すことになるとのことで、以下、高橋氏の論文の概要をご紹介していこうと思います。

      「伯耆文化研究」(第24号)と講演中の高橋章司氏



「重仲」の読み方

●「重仲」はシゲナカではなく

ジュウチュウが正しい。

なお「重仲(シゲナカ)」という読みについて、これは本論の中で「ジュウチュウ」が正しいとされているので、以下そのように読んでください。

●宮市森家所蔵の江府町指定有形文化財「下原重仲の詠草」の中の「重仲上(たてまつる)の署名から、重仲は雅号で、音読みするのが正しいと考えられる。



今までの研究資料と重仲像

2021年に開催した「第1回フォーラム」では、それまで研究されてきた基本的な内容に、「鉄山要口訳」や地元に残された痕跡の研究によって、今まで知られなかった重仲帰郷後の様子が明らかにされました。そのまとめは別ページでご覧ください。

 

今まで重仲の研究資料とされてきたものとして、以下の4つがあります。

 

1◆『鉄山必用記事』(別名『鉄山秘書』)は天明4(1784)年に書かれたとされ、日野山人の序文で重仲の素性が簡潔に語られ、大阪の鉄商中川氏の後書きや添書きに執筆の経緯や山口屋に関する記述があリ、本文には、自身の年齢や祖父や父の事績が述べられています。

 

2◆『宮市森家過去帳』は文政4(1821)年頃のものとされ、本人の筆により事実関係は正確ですが省略が多いようです。

 

3◆『森家系』は嘉永7(1854)年頃、恵助の次男与平が父の没後間もなく編纂したもので、可愛がってくれた祖父、重仲から聞いた話をまちめたものと推察されます。

 

4◆『孝行者抜擢書』は近藤家文書のひとつで、万延元(1860)年、大庄屋・近藤平右衛門が恵助の死後、褒章のために鳥取藩に提出した推薦書の下書きです。黒坂森家、為吉夫人の口述によるものと推定され、「抜擢(ばってき)書」という性格上、脚色が強く、年代表記にも齟齬があります。

 


これまでに描かれてきた重仲像。

生田清による否定的評価と、幡原敦夫による肯定的評価。

明治末年から、俵国一博士によって『鉄山秘書』が紹介されたことから、下原重仲という名前も知られることになります。しかしその人については長く不明なままでしたが、『秘書』の記述や過去帳などを精力的に調査した生田清によって初めて、その生涯が明らかにされ、子孫が確定されることになりました。生田は重仲を「著述に没頭して没落し、出奔した」とネガティブに描いています。

生田の後、新資料を紹介し先祖や家系について詳しくまとめたのが幡原敦夫で、彼は重仲の人間性を推測して肯定的に捉えています。

上述のように二人の評価の仕方に違いはありますが、生涯についての説明はほぼ同じです。

 

●系譜については右図をご参照ください。



『農暇拾穂集』の再発見、その内容

 

『農暇拾穂集』は黒坂森家が所蔵される重仲直筆の「歌集」で、同家八代目の森恵弘(しげひろ)さんは早くからその重要性を認めておられたようですが、「歌集」という体裁であったことから、生田氏にも幡原氏にも大きくは取り上げられないままで、30年以上忘れられた存在でした。

しかし令和4年10月29日に高橋氏が黒坂森家を訪れた際、文書箱の中に『農暇拾穂集』の原本を見つけ、その重要性に驚かれたとのことです。

 

『農暇拾穂集』は恵助の勧めで、重仲が晩年、書きためていた作品を集めた歌集で、大きさは縦33cm・横25cm、93ページからなります。その中には和歌/268首、狂歌/21首、俳諧/120句、、、他、合計413点の作品が掲載され、その内388点が重仲作のもの、全体の構成は次のようになっています。

 

  序文

  第1部  選集 四季の歌/148点

  第2部  回国歌集 道中/117点、和歌/34首など

  第3部  補遺 前半/38点(祝賀や追悼)

        後半/徘徊連歌72句 青年時代

  巻末  

 

 



序文と巻末

序文

巻末の花押

序文には「若かりし時より敷島の道にこころはよりしかど 農業の事繁さにまぎれていつ学ぶ暇もなかりしかど・・・」と始まり、『農暇拾穂集』と題したその意が表されています。

「敷島」とは歴史ある日本の異称で、「敷島の道」とは「和歌(大和歌)の道」を意味します。 

そして恵助の勧めで書きためていた作品を集めたというこの歌集の由来が語られ、他人に見せないでほしいとしながらも最後に、「かりそめの筆のすさみも後の代に これかたみやと人の・・・(以下欠)」と書かれて、この歌集に込めた重仲の心情が示されています。

巻末の最後には「八十三翁吉蓮雑書」と記され花押が入っており、これが亡くなる前年の著作であることがわかります。



         出典▶︎『伯耆文化研究』第24号 高橋章司氏「『農暇拾穂集』にみる下原重仲の実像」(70p)


『農暇拾穂集』にみる重仲の実像


1/青年時代

1/奥州太夫との恋

重仲20歳の頃、大坂新町遊廓の遊女「奥州太夫」と出会い、歌を交わす。

和歌において相当の修練を積んでいることが分かり、最上位「太夫」とは言え苦界に生きる女性を敬う態度があり、やがて会えなくなった太夫を偲び、その出身地の近江まで足を運ぶ。

若くしてこうした桁外れの豪遊ができたのは、重仲の父臨が、大阪の鉄屋十右衛門の手代平助と組んで商売をし、大稼ぎをしたが故。

●奥州太夫/宝暦7年(1759)刊『澪標大坂新町細見之図』に、槌屋利三郎の置屋の太夫9名中に「おう志う」の名がある。

●出会った時期、年齢/「花紋日客は菜種の華次第」(84p)という句から、幕府の触書で大坂に灯油用菜種の供給が集中した宝暦91761)年以前。重仲二十歳の頃と推定。

■奥州太夫に初めて出会い、源氏名に因んで贈った歌

  恋わぶる思ひなれども塩竃の なべて烟りと君や見るらん(33p) 

■太夫を思って近江で詠んだ歌

   唐崎の松は要のありどころ 太夫といふは秦の代の爵(84p)  

■桁外れの豪遊、巨万の富を築く痛快さを詠んだ歌

   建並ぶ蔵は何軒幾戸前 延たる金のさぞな沢山(90p



2/自由な青年時代

機械仕掛けのからくり芝居が人気だった大坂道頓堀の「竹田からくり」では、無理を言って仕掛けを見せてもらったりしており、テクノロジーへの好奇心が旺盛だったことが分かる。これは「製鉄」に対しても同様だったと推察される。

青年時代の重仲は上方に度々通い、大坂、京、近江、明石などで歌を詠んでいる。

 

伊勢や住吉大社で詠んだ歌には、後年の神仏への崇敬は感じられず、我が世の春を謳歌する青年時代の姿が見える。

 

■竹田からくりを詠んだ歌

  下り船夢の間に十三里 竹田の細工珍なからくり(91p 

■伊勢で詠んだ歌

  倹約に又勘略も打ちまぜて 腰に柄杓を指て参宮(90p



2)鉄山師時代

庭造り(時期不明)の歌などから、大富豪の暮らしぶりが察せられるが、安永9年(1780)、鉄座開設で鉄山業が暗転。『孝行者抜擢書』には翌天明元年(1781)のこととして、大坂に金の工面に出かけたことが書かれ、また父・臨の急逝が重なるが、『農暇拾穂集』には苦境を示した作品がない。

 

この頃、米子の和歌のサークル「人丸講」の前半期の集まりに参加し、5首を残し高評価を得ている。 

江戸で狂歌が大流行する天明31783)年頃、19首の狂歌を詠んでいると思われることから、天明4年(1784)に完成する『鉄山必用記事』は、歌会に参加しながら著述していたことになる。その余裕は、財が莫大であり、重仲の泰然とした性格による。

 

■自宅の庭の完成を喜んで詠んだ歌

〜蓬莱形造りし庭を見て詠る〜

  鶴亀の千代も八千世も此屋戸に 住馴て見む庭の池水(19p

■人丸講関連の五首

  水の面にうつるも涼し鵜船さす 川瀬の蛍萌わたるかげ(21p

 



3)回国修行(往路3年)

1/旅の動機と出発の時期

旅の動機についてこれまでは「鉄座開設の打撃で鉄山を廃業し、故郷を捨てて出奔した」とされてきたが、家運の衰退は(本人ではなく)子孫が説明したものであり、旅は宗教的な言葉で語られる。回国修行とは、六十六部回国巡礼のこと。

出発年についても諸説あり。『森家系』では天明7年(1787)、

『抜擢書』では天明元年(1781)とも安永7年(1778)ともしている。

農暇拾穂集』には「年来の志願により、50歳の秋にふと立ち出でて回国へ趣く・・・」とあり、天明7年(1787)秋、「年来の志願」を旅の動機としていて「出奔」ではない。

二つの志願の内容

 一つは家族の供養

最初の妻と幼い長男長女を亡くし、父臨も亡くなったばかり。

二つ目は文学への好奇心

「伊勢物語」や「おくのほそ道」への憧れ。人生50年といわれた当時、旅を通して和歌俳諧の道を究めること。

  

事前に事業を譲渡・継承した可能性もあり、周到な準備がなされたと推定される。



2/伯耆〜上方〜伊勢・志摩〜 天明7年(1787)

愛宕山(京の西)から「六十六部回国巡礼」、六部行者としての旅を始める。

その後は、山城(京の南)〜松坂〜伊勢神宮・・・的矢(志摩半島)で越年。

  導引の神なれば愛宕山地蔵権現江参詣

  竹田の国分寺より京へ出て

  近江国一宮大明神へ参詣て (36p

 

●六部とは/六十六部の略。霊場を回って経を納める行者。物乞(ご)いをして諸国をめぐる巡礼のこと。重仲は多くの人の「報志」を受け、それに応えた作品が18点ある。



3/伊勢・・飛騨〜信濃〜甲斐〜駿河〜遠江

天明8年(1788)

伊勢から飛騨(春から初夏)へ記述が飛んでいるのは、帰路における「道中記紛失」による。

その空白期間は日本海沿岸を回ったか?夏は中山道沿いを行き、甲斐に入って富士山の八合目まで登り、駿河〜遠江(とおとおみ)で越年。


4/三河・・遠江〜駿河〜相模〜武蔵〜安房(あわ)

寛政元年(1789)

年が明け、浜松から三河八つ橋(豊田市)で記述が途絶え、遠江から東に進み、相模・秦野今泉で数日間逗留、鎌倉で芭蕉塚に詣で、武蔵玉川を津、安房の坂下(千葉県安房郡鋸南町)で越年。



5/安房〜上総〜常陸(ひたち)〜出羽〜津軽

寛政2年(1790)

春、房総半島を周回して霞ヶ浦へ。白河の関から最上川を下り、象潟(きさかた)へと、明かに

「おくのほそ道」の追体験コース。芭蕉の北限は象潟だが、重仲はさらに北へと向かい、八森(秋田県山本郡八峰町)の瀑山不動寺から9月には津軽外ヶ浜に達する。

●白河の関/みちのくの玄関口(国境の関)で、"歌枕(和歌の名所)″として知られ能因や西行、松尾芭蕉など、多くの歌人たちが憧れた地。

●象潟(きさかた)/秋田県にかほ市にあり、現在は陸地だがかつては潟湖(入り江)で、潟湖に島々が浮かぶ風光明媚な景勝地で、「東の松島 西の象潟」と謳われた。象潟は国の天然記念物で、鳥海国定公園の指定地。また2014年より「おくのほそ道」の風景地の一つとして国の名勝にも指定されており、「おくのほそ道最北の地」と銘打たれている。



4)津軽今別村での出家時代 (3年9ヶ月)

足の痛みにより(『過去帳』に記載)、今別村に逗留。この地で博学の和尚の弟子となり、髪を剃って出家(『抜擢書』に記載』、師から「伯誉吉蓮」の法名を与えられた。

師の名を汚すことを恐れたのか、その名は記されていないが、現地調査と、『拾穂集』に「予吉蓮が師(69p)」と明記されていることから、師とは、浄土宗本覚寺十三世良序愍栄上人であると確定。

重仲はこの僧に魅了され、回国修行を途中で諦め、出家することを選んだ。

●愍栄上人(みんねいしょうにん)/重仲より17歳年下。津軽半島小泊村生まれ、磐城(いわき)の専称寺で学び、寛政元年(1789)、35歳で本覚寺住職に。村人に昆布養殖や建網漁を教え、植林を勧め、地域振興に努めた。仏像彫刻を得意としていた。

 

重仲があてがわれ暮らした本覚寺末寺の観音堂は、本覚寺蔵の『当寺並末庵人別戸数書上帳』から、現在の「高野山観音堂」だと推定。本尊は寛政3年(1791)に愍栄上人が作った十一面観音像。

 

『拾穂集』(67p)に、「陸奥外ヶ浜にて十一面観音ヲ彫刻せし間に師の上人に傅(かしづ)き昼夜仕へて・・・」とあり、重仲が観音像の製作にも関わっていたことが判明。

 

■生活は気ままで穏やか、村人にも大切にされたことを表す歌

  一戒はやぶって造濁り酒 花の盛は居ながらに見る(88p

  早蕨の折ふし里の人も来て うどや三つ葉を送好便(88p

 

 



恵助の来訪 寛政5年(1793)

寛政5年(1793426日、19歳の恵助が訪ねてくる。

恵助が父を探し訪ねたのはなぜか?

■「為迎尋来」・・・『過去帳』

■「父之行先安否忘却無暇」・・・『森家系』

■「旅僧壱人罷越、浜ノ目境津より書状被相頼候ニ付届ケ可申与宿へ投ケ込置、逃去候」・・・『抜擢書』 

 

『抜擢書』の「宿元」とは俣野山口屋か?

恵助は手紙で重仲の所在を知ったが、重仲はなぜ故郷へ手紙を書いたのか?

『書上帳』に、恵助が今別に来た年に観音堂が再建されていると書かれていることから、大恩のある上人のため、観音堂再建のための資金を手紙で求めたのではないか?



親子の出立日

親子の出立は寛政6年(1794618日。

●黒坂森家にある愍栄上人が餞別に彫った「石楠花製聖観音像」の墨書銘が「寛政六甲寅天六月十七日」となっている。

●恵助が1年2ヶ月も滞在したのは観音堂再建を手伝ったからか?

帰国の理由

『過去帳』には「故郷忘れがたく・・・」とあるが、上人が帰郷を勧めたのではないか?

■『拾穂集』には愍栄上人の餞別の歌

   此たびは立わかるとも後の世は弥陀の御国に生まれ逢うべき(54p

■それに対する重仲の歌

   契り置く誓いの空しからざれば 彼岸にこそ渡り逢いなむ(54p

双方、餞別の歌で来世での再会を約束。

 

●観音堂の後日譚

明治中頃、屋根裏から上人が人知れず彫った阿弥陀大仏の頭部と両手等が見つかった。これは上人が「弥陀の御国」を表そうとしたものではないか?

上人は享和3年(1803)に入寂。『拾穂集』(72p)に上人を懐かしむ歌はあるが、追悼の歌はなく、重仲は師の早すぎる死を終生知らなかったはずである。



5)回国修行(復路1年3ヶ月)

1/今別〜南部〜松島〜出羽〜下野(しもつけ)

寛政6年(1794)

二人は松島〜沖の石(宮城県多賀城市)など名所・歌枕を訪ねながら三陸海岸を南下。

恵助に和歌俳諧の手ほどき、『拾穂集』には恵助作17点。

 

■武蔵の畑山で越年した際の恵助の句

  幾千里飛て暮か虎の年(59p) ※寅年は寛政6年(1794

2/武蔵〜駿河〜遠江〜伊勢〜大和〜伯耆

寛政7年(1795)

年が明けて、根小屋村(埼玉県比企郡吉見町)で記述が途絶え、「此間道中日記紛失」(61p)とある。※前述の、春から初夏にかけての作品が記載されていないとするのはこのため。

その後夏に、江ノ島から箱根へと至った後、二人は大病を患う。

『森家系』には、「駿河の阿僧儀村で父子は大熱病で危うかったが、村の観音に恵助が持参していた先祖の遺物短刀銘恒次を奉納して立願し、無事平癒して帰国することができた(意訳)」とある。

 

■その際に恵助が詠んだ歌の枕詞

  かんばらにて煩(わずらい)ける時観音江祈りて全快(62p

●その観音堂とは?/蒲原(現・静岡市清水区)から西5kmの、由比阿僧(ゆいあそう)という村にあった、十一面観音を祀った「瘤山(こぶやま)観音堂」だと考えられる。※観音堂は令和初年に取り壊され、観音像は近くの常円寺に遷されている。

 

その後遠江から三河・尾張を進み、秋には桑名、そして恵助に見せたかったのか伊勢に立ち寄り、大和の三輪明神参拝で旅の記録は終わる。

三輪から大坂に出て船に乗ったと推定され、918日、丸8年ぶりに帰郷。



6)帰国後

根雨松田屋(手嶋家)ほか鉄山師仲間との付き合いが続き、祝い歌も多数。

俳諧の付き合いも広かった。『拾穂集』の最後で、人生を賑やかな花見の宴と振り返る。

 

■寛政11年(1799)、五代目手嶋伊兵衛知慧が婿入りした時の記録

  手嶋氏養子聟婚姻を祝して送る(中略)

      鉄山師なれば寄鑪歌(19p)   ※聟/むこ   

 

■作陽湯原の南枝という俳師を悼んだ句

      消てゆく雪路や直に清浄土(17p

■文化5年(1808)一字一石経の書写中夢に見たもので、

   宮市の下原家が先祖の森姓に復したことを示す

       下原の紫草の葉も時を得て 森木林の如く栄へん

     右者観音の御示現ならんかしと難有覚へて、

       従是苗字を改易して森氏と名乗侍也。因縁有事也。(78p

   ※一字一石経/小石一個に一字を書いて経典を書写したもの

■『拾穂集』の最後は若い頃の歌

       華盛幕の打場も所せき 群集を散す晩鐘声  以上 



                  出典▶『伯耆文化研究』第24号   高橋章司氏「『農暇拾穂集』にみる下原重仲の実像」(7076p


6 重仲の歌道

1/正統な「敷島の道」

重仲の作風は、古典をよく学び、本歌取りや枕詞を多用。作品に鉄山が登場しないのは、生業を詠むのは雅ではないと考えたから。家族を題材にしたものもない。家族想いではあったが和歌では制約があったからではないか。

 

■例外的に鉄山を詠んだ歌

       水ちかき此高殿の風清く

             夏も忘れて涼しかりけり(23p

■巻末に、和歌ではなく家族思いを表した詩歌が二つ

一つは『三国志演義』から漢詩を引用したもの、もう一つは数字遊びの戯歌。

 

「敷島の道」とは/日本の異称「敷島」に由来し、「和歌(大和歌)の道」を意味します。

2/和歌の師  徳岡芦舟

江府町佐川の東光寺所蔵『弥陀三尊縁起』から、芦舟(ろしゅう)は11歳年上で歴史の著作もある徳岡姓の人物で、江府町江尾の東祥寺に現存する墓碑銘から、安永年間の大庄屋、徳岡三郎兵衛であろうと考えられ、重仲との師弟の深い関係が見られる。

加えて『鉄山必用記事』の序文に「日野山人」として、一度しか使用が確認されていない「重仲」の雅号を書くことができたのはこの徳岡芦舟しかいない。 

 

■徳岡老翁芦舟丈五月に身まかりてける。水無月になりて作陽にて聞て

     世に照りし月の光も五月雨に 雲隠れ行空ぞかなしき

■又かなしみ絶ずして一首 予が歌の師なれば

     ふる泪袖や袂をしぼりつつ 干すひまもなし水無月の空(80p

■『鉄山必用記事』の序文中の記述

     数回いな(否)といへども屡(しばしば)乞いてゆるさず

 



                    出典▶『伯耆文化研究』第24 高橋章司氏「『農暇拾穂集』にみる下原重仲の実像」(76p


『農暇拾穂集』の価値

1/重仲にとって名誉ある大きな変更を迫る

出奔ではなく、年来の志願による和歌俳諧の修行であった。

   青年時代の活動や幅広い交友関係、人柄を伝える。

 

2/『鉄山必用記事』成立の背景

『鉄山必用記事』の著者であることは前半生の一面。

本領とした文芸への情熱こそがその本質で、それとテクノ

ロジーへの好奇心が結びついて『必用記事』を生み出

した。

3/日野郡に豊かな鉄山師文化があったことを示す

江戸中期の庶民文化を特徴づけ、特筆されるべき。

 

4/重仲は歌人、俳人、文人として評価されるべき

農暇拾穂集』の全文が知られ、文学的な視点での

評価が待たれる。



                     出典▶『伯耆文化研究』第24 高橋章司氏「『農暇拾穂集』にみる下原重仲の実像」(77p