根雨の松田屋(手嶋家)

根雨松田屋 手嶋伊兵衛

江戸回鉄御趣向期間中に日野郡内で最大の産鉄量を維持し、最も勢力があったのは根雨の松田屋、手嶋系鉄山師です。本家手嶋伊兵衛は息子政蔵とともにその財力と手腕を認められ、寛政9年(1787)3月には郡、中構宗旨庄屋を拝命後、文化2年(1805)9月より文政10年(1827)まで親子二代にわたって郡内大庄屋を勤め、郡内民政とともにこの回鉄御趣向の実現にも大きく貢献した人物です。当時、藩の鉄山政策は松田屋を除外しては実施し難く、江戸回鉄御趣向も文化13年(1816)4月30日、後の出鉄御用懸り平井金左衛門がその藩命を受けて出府するとき、手嶋伊兵衛及び黒坂の緒形長蔵(後の鉄山元締役)他1名を伴って江戸へ赴き、江戸鉄問屋と折衝することで実現しました。

関連文書散逸のため、当地の地方誌にもこの手嶋家をまとめて紹介する記事はありませんが、近藤家文書などから断片的にその歴史を探ることができます。 参考■鳥取藩の鉄山政策

松田屋系鉄山師3家が稼業した鉄山

本家と二分家で10ヶ所を操業

近藤家の諸史料から、回鉄御趣向期間中に松田屋系鉄山師3家が、計10ヶ所の鉄山(鈩・大鍛治)を稼業していたことがわかります。 

●本家松田屋手嶋伊兵衛(名代馬吉)

上代(かみだい)山(溝口町上代)・立打(たてお)鉄山(同)・篠谷山(江府町俣野)・高谷山(江府町武庫)・川平山(不明)  5ヶ所

●分家松田屋平右衛門

西畑山(日野町板井原)・内井谷山(同)・平岩山(日南町山裏村)―3ヶ所

●分家松田屋卯右衛門(名代八十次)

舟場山(日野町舟場)・ニ郷山(備中阿賀郡大井野村)−2ヶ所

   ■写真は、見事な石垣を残す舟場山


郡内出鉄高の3割を占める

江戸回鉄期間中、文化13年(1816)12月、江戸回鉄仕切銀でみると松田屋2家で代銀104貫目余り、全体の31.8%にも及び郡内で最高。

また文政元年(1818)12月より同4年11月間の郡内産鉄81,928束のうち、松田屋系は28,114束で34.3%を占め、大鍛治数については郡全体27軒中8軒、約30%と最多を占めていました。

ちなみに郡内第ニ位の産鉄量を保持したのは近藤家でした。

江戸回鉄取り止め後

文政後期(1830 年頃)には上代山・篠谷山・内井谷山・平岩山・二郷(合)山、大河原鉄山・砂田山・吉子山の8鉄山、文政後期から天保にかけて仲屋山・津地山、天保中期には田代山・大谷山・三谷山・仲屋山の4鉄山で操業し、天保後期(1840年頃)には更に舟場山・西畑山を加えて稼業しています。


たたら経営〜資金調達の腐心

鳥取県史在方諸控に記された手嶋家に関する最初の記事

文化6年(1809)9月、鳥取在方役所へ願い出た文書に、郡役を拝命したため鉄山経営が疎かになり経済面で苦しい。万事簡略にしたいので許可を願いたいと、当時の鉄山不況で鉄山師の経営は苦しく、このまま郡役を担うと本業のたたらも存続が危ういと訴えています。

 

また文化10年(1813)2月の上申書では、たたら経営のための資金が不足し、諸々の仕入れにも差し支える状態で、鳥取藩に対して「御銀札場より銀札120貫目を拝借したい」と嘆願しています。その理由として、手嶋家が大坂に出荷する鉄価を基準として他の鉄山師の鉄価が定められることから、仮に手嶋家が大坂鉄問屋から借入れをすると、郡内産鉄の仕切価格を引下げられ、郡全体の鉄山師の出荷に不利となるためだとしています。

 

当時多くの田地山林を保有し、強大な資本力を有していた手嶋家ですが、たたら経営には巨額の資金を要したことから、これらの文書によって、当時鉄価低迷により郡内の鉄山師は資金繰りに困惑していたことが推察できます。

 

大庄屋としての2代目手嶋伊兵衛の業績

郡内における資金不融通を補うために奔走

●江戸評定所で下された裁定を処理した一件

日野郡の山林土地を買い付け、または担保を取って貸し付けを行っていた備中阿賀郡の地主某と、畑村住民との間に生じたトラブルを処理するために、郡内の徳人たちの協力を得、あるいは鳥取藩からの借入で金を工面して土地を買い戻した。

●鉄山札発行の嘆願

このように日野郡内で資金がうまく融通できないことを緩和するために、産鉄の売上を見込んで鉄山札(鉄山で通用する新たな銀札)の発行を藩に願い出たが、これは許可されなかった。

●資金調達に苦心する鉄山師たち

この後も借り入れを希望する鉄山師は次々とあり、文政11年の「太田辰五郎名義の貸控帳」には、書画・腰刀までを担保として数百両を借り入れた生山段塚五助、鉄山林を担保として借入れた黒坂緒形市兵衛、小割鉄及び鉄山林差当ての阿毘縁木下万作などの名前が見え、どの鉄山師も資金調達にはかなり苦労した様子が伺えます。

根雨の松田屋、手嶋系の衰退

県史によれば手嶋系一族の鉄山師は幕末となって急速に経済力を失ったようです。

その理由は明らかではありませんが、断片的な記録の中から、自家鉄山運営のための資金不足の他に、郡内鉄山師の経済力を維持するための借財、また在方郡役人として貢納等諸賦課(税金)の立て替え、諸雑費の支出などの負担増が経済的逼迫を招いたものと思料されています。

日野郡内の鉄山師の動向は、鳥取藩の鉄山政策が意志ある者の鉄山稼業を全面的に認めた反面、経営不振に陥った鉄山師の救済には消極的であったため、激しい興亡があり、鉄山師の没落とともに例外なく関連文書も消滅してしまいました。手嶋系鉄山師に関する近藤家文書の記録では、天保12年田畑約7町歩を近藤家へ永代譲渡、また安政4年(1857)会見郡牛子山鉄山を下備後屋(今の近藤家)へ売却したのを最後に、その後の消息は今のところ伝えられていません。

■文献『たたら研究』第34号 別刷1993年12月 より