日本独自の製鉄技法「たたら製鉄・砂鉄製錬法」。西洋鉄の流入により斜陽の一途を辿っていた「たたら製鉄」の記録を後世に伝えるために、明治31(1898)年、東京帝国大学の俵国一博士によってその詳細まで調査されたのが、この都合山たたら跡です。その研究資料が残されていることや、保存状態が良好なことなどから、令和1(2019)年、鳥取県指定史跡となり現在に至っています。その経緯は「都合山たたら遺跡」のページに詳しいので、そちらをご参照いただくとして・・・。「シン・ツゴウヤマ」とは?
「シン・ツゴウヤマ」とは、令和7(2025)年、都合山たたら跡の深部(南側)において、近藤家以前、江戸時代に操業されていたというたたら跡など何箇所かの発掘調査がなされ、約700年前の中世たたらも見つかり、これら数百年の歴史を宿す全体を指してそのように呼ぶことにしました。
令和7年まで皆さんをご案内していたのは、左図の「明治期」と示したエリアです。この度、「江戸期」「中世」と示したエリアが加わることになり、その全体を指して「シン・ツゴウヤマ」となりました。
ここを1〜2〜3・・と辿れば、数百年に及ぶ「たたら製鉄」の歴史をまとめて体感していただくことになります。
1ヶ所の史跡でこうした形でご案内できるところは実に貴重だと考えられ、今後多くの皆さんにお訪ねいただけるように、態勢を整えていくつもりです。
令和7年の6月1日から8月31日にかけて、都合山たたら跡の深部(南側)において、近藤家以前の状況を確認するため、何箇所かの発掘調査がなされました。
メインは、以前からその存在がある程度明らかになっていた江戸末期の高殿跡。近藤家文書によれば、天保4(1833)年〜同9(1838)年に「長太郎」、元治元(1864)年〜明治2(1869)年に「西村吉左衛門」が経営したとされている場所で、金屋子神社への入り口あたりに位置します。
真夏の暑い最中の作業でしたが、「中世たたら跡」と示した場所は、炭化物の年代測定によって「鎌倉~室町頃」という結果を得るなど、今後につながるさまざまなことが解りました。
今回調査された江戸期の高殿について、近藤家文書によれば、天保4(1833)年〜同9(1838)年に「長太郎」、元治元(1864)年〜明治2(1869)年に「西村吉左衛門」が経営したとされている場所で、金屋子神社への入り口あたりに位置します。本床、小舟、床釣外郭、小鉄町について、次のような確認ができました。
●たたらの炉の下部、「本床」は長さ3m分、幅は約1.2mについて確認。
●地下構造の湿気を抜くために設けられた「小舟」は、北西側1.9m、南西側2.9m分を確認。幅はそれぞれ0.8m。南西側は甲が陥没していましたが、裾部はきれいに残っていました。
●床釣の外郭は5.2m分が良好に残存しており、配列はやや丸みを帯びていました。
●砂鉄置き場である「小鉄町」は、1.9m分の石列が確認されました。
●さらに、18〜19世紀のものと思われる陶器片も出土しました。
お盆明けの8月17日、都合山には大勢の人々の姿がありました。
6月初めから発掘調査がなされてきて、8月末、期間終了後には埋め戻されることから、このタイミングでの現地説明会となりました。
最初に都合山の発掘調査を手がけられた、雲南市教育委員会の角田徳幸さんと、鳥取県立公文書館の高橋章司さんによって、今回の発掘場所=3箇所が順に解説され、見学の皆さんは熱心に耳を傾けておられました。
後日、「中世の野だたら」とされていた場所は、鎌倉後期〜室町時代のものと判明し、今回は未確認となったその本床は、次年度改めて発掘される計画です。今回そこまでは「藪漕ぎ」でいくしかありませんでしたが、簡易な歩行路は早々に確保したいものです。
加えて、すでに埋め戻されている明治、江戸期の高殿の四隅には、目印となるマーカーを設置し、見学者によりイメージしてもらえるように計画中。
今後ここ「シン・ツゴウヤマ」で、日本独自の”たたら製鉄”の歴史を、明治〜江戸〜中世へと遡って、楽しくご体感いただけるようにしたいものです。