下谷中山鉄山跡


歴史・概要 『たたら製鉄遺跡分布調査報告書Ⅰ』より

   ↑2013年以前、1本残っていた押立柱

『たたら製鉄遺跡分布調査報告書Ⅰ』より

ここでは2014年3月に伯耆国たたら顕彰会から出版された『たたら製鉄遺跡分布調査報告書Ⅰ』に記載された下谷中鉄山跡の内容をもとにご紹介します。

下谷中鉄山は、近藤家文書によれば、安政8年(1779)と寛政12年(1800)〜享和元年(1801)に備後屋喜兵衛(下備後屋)が、明治37年(1904)〜大正10年(1921)には近藤喜八郎が経営したと記されています。

ここから谷中川上流に向けても各所に鉄山跡が確認されており、近藤家文書には、それらを営んだ鉄山師についても様々、記録が残されています。また、鳥取藩命により伯耆国に関する地誌として明治維新期に成立した『伯耆志※』にもその名が見当たります。

山内の様子(2013年頃の記録から)

国道183号、日南町河上から木谷川を上流へ、途中、谷中川沿い県道・・・号線を走って、約3.6km谷奥の西側、谷中川の対岸に、東西50m、南北80mほどの平坦面があり、ここが当該地となります。

西に壁山があり、東は谷中川への崖、南は壁山からの裾が谷中川へと下っており、北は山内小屋の平坦面。南西に20m四方の高殿跡。2013年以前、栗材の押立柱が一本立っていましたが、平成22年の雪で倒れ、それ以前に倒れていた押立柱とともに2本が転がっていました。(左の写真は、当時残っていた押立柱)

その東側に水車小屋があって柱が1本残っており、横には石組の水路が残っています。一段下の北側には池と8m×40mの鉄池があり、谷中川に向かって石組の水路があります。

高殿の北側には22m×15mの石組の貯水池があり(砂鉄洗い場か?)高殿の南西隅には金屋子神社の二段の台座が残っています。

貯水池の北側には階段状になった平坦面があり、本小屋・山内小屋があったと思われます。

『鳥取県生産遺跡分布調査報告書』で示されているたたら遺跡の類型で言えば、河岸段丘の平坦面を利用した「川平型」のたたらということになります。また施設配置を俯瞰した時、都合山たたら跡とよく似通っている感じがします。


下谷中鉄山跡の位置

見取り図

都合山の施設配置



R5年の発掘調査 〜現地説明会資料から〜

遺構規模や残存状態が良好であり、令和4年10月4日に町史跡に指定され、この度、国指定史跡を目指すための価値づけ資料として発掘調査が行われました。調査期間は令和55月下旬から7月下旬まで約2ヶ月間。調査主体は日南町教育委員会で、調査後、報告書が作成され、同年9月に現地説明会が開催されました。

ここではその時の資料をもとに、調査結果を記載しますが、上述の「遺跡分布調査報告書」の記載内容と重複し、また異なる部分もあることをご了承ください。

 

 

R5年の調査では、高殿の規模や本床の確認がなされ、元小屋や鍛冶場の確認のため、7カ所のトレンチを掘って調査されました。

 



発掘調査の成果

発掘するまでもなくわかる山内の施設配置

山内全体を見渡して、発掘するまでもなく、砂鉄洗い場、鉄池、銅場、炭窯(3カ所)、橋台跡は確認できる。

T1/元小屋跡

「元小屋跡」とされていた場所で建物跡を想定して発掘。トレンチ設定場所で列石(北側)を確認、周囲を草刈りして建物周囲全体の列席を確認。「元小屋跡」と確定した。


T2/鍛冶屋

近藤家のたたら場では「鍛冶屋」を併設していることが多く、それを想定して発掘。

南側の端に列石と礎石、平面の一部に焼土面が確認できたが鍛冶屋跡と断定できる遺物は発見されなかった。

閉山後、礎石などは取り除かれて場所を移し、集約された可能性がある。

T3/炭小屋跡

炭小屋跡と思われる場所では土中から未使用の炭が多く検出されたが、建物の礎石は確認できなかった。

 

T4/鍛冶屋跡

建物跡と考えられる列石や礎石は検出されなかったが、火を使ったと思われる。

焼土面は確認できたが、鍛冶屋跡と断定できる遺物は発見されず、建物の性質は判別できなかった。

発掘途中で未使用の炭の層が検出され、山手にあった炭窯の付属施設とも考えられる。またこの南側に建物の床面があり、そちらに接続していた可能性もある。


T5/高殿跡

高戸の中央部には不要となった石が集められていたが、石の下層から本床跡の粉炭層が検出され、炉の位置が確定できた。

炉の脇に、未摘出の「筋金」と呼ばれる金属の巨大な四角柱を発見した。

これは炉の下層で、炉が崩れるのを防ぐ役割のもので、土中から発見されるのは国内初の事例ではないか。

 

北側では水車による送風管を確認するため発掘したが見つからなかった。

 

●筋金入りの語源/強度を高めるためにはめ込んだ長い金属が入っていること・ものの意から。

 

T6/高殿跡

本床跡が検出され、本床の規模が確定できた。南側では村下の休憩場所の列石を確認、高殿内部施設の規模を確定するための判断材料となった。

T7/高殿の規模

高殿の規模を確定するために発掘をし、

高殿内部の平面では約2cm下から砂鉄層を確認。砂鉄を集積した「小鉄町」の位置を確定した。

山手側では床面の縁を確認でき、山手側の規模が確定できた。



伯耆志(ほうきし)

景山粛(立碩)ほか編

成立 幕末―明治初年

鳥取藩命により伯耆国に関する地誌として明治維新期に成立。会見郡と日野郡の河東・河西の三部からなり、他の郡を欠く。その内容は郡ごとの石高・古城・駅・村数・人口・寺社などを概説し、さらに村ごとに石高・人数などを記述しており、村に残る古文書やその村にかかわる古記録も紹介されている。当資料の編纂過程について、「鳥取藩史」では会見郡分は安政五年に景山立碩が編纂して差出し、文久元年改めて藩校尚徳館国学局の仕事として伯耆国の諸資料の調査が行われて多くの資料が同館に集まったと記す。編纂には飯田年平・門脇重綾・小谷古蔭らがかかわり、景山のものに日野郡を追加した段階で廃藩となったため中絶した。明治一四年鳥取県再置までに会見・日野両郡分以外の資料は散逸した。