吉鈩(よしだたら)

吉鈩山と下鈩山は同じ場所?

現在も当時の山内の面影を残す日南町の吉鈩地区。奥日野のたたらが終焉を迎える最後まで操業され、当時の写真も残されています。

近藤家文書によれば、明治14年(1881)から、大正10年(1921)まで、近藤喜八郎(下備後屋)が経営したとされていますが、この時の場所についての記載は「日南町印賀下鈩山」となっています。

「下鈩山」では文政5年(1822)〜文政8年(1825)と天保4年(1833)に、いずれも鉄山師は不明ですがたたらが打たれ、さらに嘉永元年(1848)〜安政6年(1859)には木下大三郎が経営したという記録が残っています。

近年〜現在の呼称「吉鈩山」と、江戸時代からのたたら操業記録を残す「下鈩山」は同じ場所かどうか、今後の解明が待たれます。


写真は左から銅場(重い分銅を落として鉧を割る施設)

中程は事務所(本小屋)、手前右側は小割長屋(職人の住居)

写真左には高殿、中央が銅場、その右が事務所。


在りし日の吉鈩


立地

主要地方道阿毘縁菅沢線、吉鈩バス停の東、立石川対岸の平坦地がたたら場です。50m×80m以上の平坦面に鉄山と山内が形成され、高殿は平坦面の南側にあり、高殿の北方向、東側に壁山があり、西は立石川への崖、南は印賀川への崖となっています。

 

山内の施設配置

高殿の北側に鉄池、鉄池の西側に銅場があり、鉄池の北側に本小屋、砂鉄洗い場は高殿の東側に配置されています。

図は影山猛氏から提供いただいたものを編集したもので、明治21年5月の図面には道路・水路が書かれていませんが、大正9年の図面と比べれば、おおよそ位置の見当がつくと思います。

比べてみると長屋の配置などに違いが見られますが、製造に関わる南側施設の配置には大差はありません。

施設配置の変化

不思議なことは明治21年には鍛治場がありましたが、大正9年には無くなっています。おそらく明治21年に福岡山が創業を開始しており、当地を含む付近の鉄山で生産された鉧は福岡山に運ばれ、スチームハンマーで加工されるようになり、鍛冶場が不要になったものと思われます。

さらに大正9年の図には、高殿の南東に鈩水車という施設が新たにできています。これは福岡山で導入した水力を使ったトロンプ送風機を改良し、他の鉄山にも導入したことが近藤家文書にも書かれており、吉鈩山にも導入されたものと思われます。

東壁山の頂上にあった金屋子神社は現在はなくなっています。