鳥取県指定史跡 都合山たたら跡

伝統的な「たたら吹き製鉄法」本来の姿を留め、学術的価値の高い都合山。


近年、都合山が注目されるようになった経緯

現在、日野郡内に500ヶ所以上確認されている「たたら跡」。その中で保存状態も良く、また学術的にもたいへん価値が高いとして、令和1(2019)年、鳥取県指定史跡に指定されたのがこの「都合山たたら跡」です。

場所は日野町上菅から都合谷川に沿って南に約2.5km入った山中にあり、根雨の大鉄山師近藤家が、明治22(1889)年から明治32(1899)年まで営んだたたら場でした。東京帝国大学教授であった俵国一博士によって調査され、操業当時の詳細な記録が残されているたたら場に相違ないことが、平成20(2008)年の発掘調査と文献調査で証明されています。

また発掘調査と前後して、地元の地域づくり団体「里山元気塾」によって、むかし人々が行き交い、物資を運んだであろう都合谷川沿いの古道(たたら街道)の整備が進められ、伯耆国たたら顕彰会が発足して活動を開始したこともあり、一躍注目を集めることとなりました。



明治31年の俵国一博士による調査

良質な砂鉄と木炭が豊富な中国地方を中心として盛んに行われてきた「たたら製鉄」ですが、幕末から明治になって安価な西洋の鉄が流入しはじめ、国内でも洋式の製鉄法が模索されるようになって次第に斜陽化しつつありました。この「たたら」の実態を克明に記録することを目的に、明治31(1898)年、東京帝国大学の俵国一博士は中国地方各地で実地調査を行いました。その中のひとつに都合山がありました。

俵博士は高殿や製鉄炉・鞴など生産施設の構造・ 操業状況・収支などについて詳細な記録を残し、その成果を昭和8(1933)年に『古来の砂鉄製錬法』 と題する著書で発表。今となってはその実態がよく解らない「たたら製鉄」を研究する上で、この著書は第1級の資料となっています。


俵 国一(たわら くにいち)

明治5(1872)年〜1958年(昭和33年)島根県浜田市出身。日本の冶金学者、工学博士、東京帝国大学名誉教授。

東京帝国大学工科大学採鉱及冶金学科卒業後、同大助教授、教授を経て、昭和7(1932)年、定年退官後は名誉教授となる。電気製鋼法にも通じた鉄鋼冶金学の権威で、金属顕微鏡を用いた金属組織研究で成果を残した。研究の一環としてたたら製鉄の科学的分析を行い『日本刀の科学的研究』などを著すなど、和鋼(たたら製鉄により生成される特殊鋼)と日本刀研究の第一人者であった。学術団体である社団法人日本鉄鋼協会の設立にも尽力し、島根県安来市に所在する和鋼博物館の前身である和鋼記念館(日立製作所設立・日立金属継承)の設立にも貢献があった。(引用・出典/Wikipedeia)



平成20年の、角田徳幸氏による発掘調査

俵博士の調査成果を考古学的に検証し、総合的に把握することは、たたら製鉄の実体解明に大きく寄与するものであるとして、平成20(2008)~22(2010)年に角田徳幸氏(島根県立古代出雲歴史博物館 専門研究員/当時)によって、『古来の砂鉄製錬法』に記録がある砂鉄製錬場のうち、この都合山鈩と日南町阿毘縁の砥波鈩の調査が行われました。『古来の砂鉄製錬法』の中では都合山鈩は製鉄場建物(高殿)の平面形が隅丸方形(丸打)で、半製品である錬鉄を製造した大鍛冶場の典型例、砥波鈩は鋼生産を中心とした操業の典型例とされたものです。

 

都合山鈩の調査は平成20年5月 8日〜6月1日にかけて、まず製鉄場(たたら場/山内)全体の測量から行われ、その規模は約2ha、長さ200m・幅100mの範囲にわたることが明らかにされました。

続いて6 月29日~10月11日に、高殿と大鍛冶場を対象として発掘調査が行われました。

高殿は、製鉄炉の地下構造である本床を中心として調査区を設け、規模・構造 を把握しました。大鍛冶場については、トレンチ(試掘溝)調査によって製鉄場中央付近に2軒が並んでいることが確認でき、その内部については鍛冶炉・金敷などの配置状況を中心に調査されました。

 


■調査研究から、以下のようなことが解りました。

●都合山鈩は、砂鉄洗場・高殿・鉄池・銅小屋・大鍛冶場 2 軒よりなり、原料砂鉄の精選・製錬・(炉底塊) の冷却・破砕・錬鉄製造が山内で一貫して行われていました。これらの施設は作業の効率性を考慮して生産工程にしたがって配置されています。

●高殿の構造は俵博士が作成した図面とほぼ一致しており、縦横が19.0m程度であることや、小鉄町(砂鉄置場)や土町(粘土置場)の形状や配置も確認できました。またこの調査によって俵博士の記録にはない、製鉄炉地下構造である本床・跡坪の一部も明らかにされました。

●加えて、近藤家文書には 2 軒あったとの記載がある大鍛冶場も発掘調査で確認され、両方とも本場・下げ場と呼ばれる 2 基の精錬鍛冶炉と金敷を備えており、その配置状況からほぼ同じ規格で造られたもののようです。これらから大鍛冶場も、鍛冶炉の配置に若干修正を要する点があるものの俵博士の記録と大きな相違点はないようです。

■総論としては、以下のようなことが挙げられます。

●明治時代中期に操業された都合山鈩は、砂鉄洗場・高殿・大鍛冶場などの生産施設や、生産された鉄の内訳は江戸時代のものとほとんど変わっておらず、高殿と大鍛冶場を併設して錬鉄の製造までを一貫して山内で行う生産体制が採られたことなど、日野郡で江戸時代後期から行われてきた鉄山経営が踏襲されていたということ。

●明治中期は鞴(ふいご)などの動力化や、製鉄炉の生産性を向上させるため角炉の導入など、種々の技術改良が行われた時期ですが、実情としては都合山鈩に見られるように、旧式の鈩・大鍛冶場がまだ多数存在しており、この調査研究は、こうした明治期のたたら製鉄の実態をうかがう上でとても有益なものでした。

 

出典/角田徳幸「鳥取県都合山鈩跡の調査」『平成20年度たたら研究会大会要旨集』2008.10.18



都合山の歴史

近藤家五代当主

●近藤喜八郎

幕末以来、急速に流入してきた安価な西洋鉄に対抗し、たたらの存続維持を目指すために腐心し、さまざまな手立てを打ち出しました。都合山鈩の打込を行った頃、旧溝口町福岡にほぼ同時に、スチームハンマーや水力を使って省力化を目指した「福岡山鉄山」も開業しました。

■電子紙芝居

『喜八郎の決断』←リンク

■都合山、その名の由来

 「都合」の名前の由来は、日野町上菅に残る古い伝承にあります。第七代孝震天皇は、この地で民を悩ましていた恐ろしい悪者「牛鬼」退治のために当地を通りかかり、同行されていた懐妊中の皇后、細姫命(くわしひめのみこと)が今の布瀬谷のあたりで急に産気付かれ、群臣たちが作った菅の葉の敷物の上で姫御子「福姫命」をお産みになった。天皇は付近の良い場所を選んで行宮をつくらせられ、十数年、皇女を養育された。その行宮が今の高宮の社(菅福神社)であり、菅を刈ったところからこの地を「菅の里」と名づけ、またこの地を「仮の都」とされたことから「都の郷(都郷)」、これが転じて「都合」というようになったといいます。(日野町誌)

■たたら操業の記録と人向山からの移設

都合山鈩は根雨の近藤家の操業以前、天保4〜9(1833〜1838)の間に長太郎、元治1明〜治2(1864〜1869)年に西村吉左衛門が操業したという記録があります。

近藤家はこの時期、多くの鉄山で打込(たたらの新設)を行なっており、都合山はその西側にあった「人向山(ひとむきやま)」の資材を活用するという形で明治22(1889)年に打込を行い、明治32(1899)年まで約10年間操業、その後は資材を菅福山に移しました。

人向山からの移設を進めたのは「大西山(日野町板井原)」の手代で、近藤家へ送った書簡などから、作業の様子などをうかがい知ることができ、またほぼ同時期に打込をされた大西山の経費見積もりなどから、どのような作業にどの程度の経費・人力を要したかをうかがい知ることもできます。

■人向山からの移転の様子については電子紙芝居『たたら場のお引越し』をご覧ください。   ←リンク



施設配置など現況(保存状態など)

●都合山鈩は、高殿のほか砂鉄洗場・銅小屋(鉄塊破砕場)・元小屋(事務所)・溜池・金屋子神社など製鉄場全体の遺構が良好に残っています。「砂鉄洗場」は洗う前と洗った後の砂鉄の置き場が区切られ、洗った後に砂などが混在しないよう、後方の法面は石垣になっています。高殿の下側には高温の鉄塊(鉧)を冷却する「鉄池」があり、鉄塊(鉧)を破砕する銅小屋(大銅場)跡には、重い分銅を引き上げるための動力源として利用された水車の跡が残っています。

周辺には小割長屋と呼ばれる従業員用の住宅が何棟もあり、当時この山内には手代や職人などが数十名、家族を入れると100人以上の人々が居住していたと思われます。

●明治32(1899)年に当地でのたたらが廃業された後の状況はよく解っていませんが、里山元気塾の小谷塾長によれば、戦後の食糧難の頃は、中上菅地区の畑として雑穀類や芋豆などが昭和30(1955)年頃まで栽培され、その後、畑集落の方が土地を購入されて植林をされたということです。

●平成17(2005)年、里山元気塾による都合山へ至る古道の整備が始まり、平成20(2008)年に発掘調査が行われ、日野町・日南町商工会による「地域資源∞全国展開プロジェクト」を経て「伯耆国たたら顕彰会」が発足。以降、遺跡への関心が高まり、その保全と活用を計るため平成29(2017)年に日野町が用地を取得しました。

●令和1(2019)年に、鳥取県指定史跡となり現在に至ります。

 



ベンチとキャビン建設プロジェクト

来訪された皆さんに休息していただけるよう、都合山のたたら場内にボランティアを募って、2019年春にはベンチ10基を、秋には史跡のウェルカムスペースとなるキャビンを設置しました。



ARで当時を再現!奥日野たたらの里づくりプロジェクト

日野町は、たたら製鉄の歴史を地域遺産として文化や観光振興に活用しようと、平成29(2017)年から地方創生加速化交付金によって「奥日野たたらの里づくりプロジェクト」を展開しています。その取り組みの中で、遺跡に直接手を加えることなく当時の様子を再現して広くご覧いただく方法としてARを導入。「都合山たたら遺跡」等をARで紹介するアプリを平成29年4月21日にリリースしました。

都合山の現地に設置してあるマーカーを読み込むことで、バーチャルガイドとして当時の「たたらの里の仕事ぶり・暮らしぶり」がCGで再現され、リアルなたたら暮らし体験ができます。

また、日野町ゆかりの「金屋子神(かなやごしん)」がバーチャルガイドとして登場し、各スポットを案内してくれます。