『鉄山秘書』と下原重仲

〜2021年11月21日「下原重仲フォーラム」の成果より〜

たたら研究の必読書『鉄山秘書』

『鉄山秘書』とは? Point

天明4年(1784)の書。著者は伯耆国宮市村の鉄山師、下原重仲。

●下原重仲の書を大坂の鉄商人中川氏が筆写し『鉄山秘書』と名付ける。

●伯州日野の山人が寄せた序文には、『鉄山必用記事と號(なず)くる』とあり、原題は『鉄山必用記事』。

江戸の中楯文衛門が享和3年(1803)に筆写。

●全8巻よりなり、たたらで信仰された金屋子神の伝説から、砂鉄や木炭、たたら、大鍛冶場、諸道具、職人の仕事や就業規則、関係書類の書式までを余すところなく記載。

●写本は、東京大学、筑波大学、九州大学に伝わる。

●はじめて世に広く知られるようになったのは、冶金学者の俵國一が『日本鉱業会誌』に明治45年から12回にわたり連載してから。

●その多彩で詳細な内容から、たたら製鉄研究では必読書とされる。 



2021年11月21日 角田徳幸氏(島根県古代文化センター長)の講演内容より

原本〜写本の存在

写本は、東京大学、筑波大学、九州大学に伝わり、島根県安来市の和鋼博物館には俵國一が明治30年頃に写した写本もあるが、原本は確認されていない。原題は『鉄山必用記事』。

 

大坂の鉄商人中川氏が筆写し、『鉄山秘書』と命名したその際の但し書きの大意(角田徳幸氏 講演資料より)

【大意】

この書は長年望んできたものですが、鉄山の事は昔からのしきたりで調査もむずかしいことでした。この人(重仲)は代々鉄山師の家柄で、家業のたたらについて将来のために書き残したいと思い、祖父や父、親類からも詳しく調査しました。そして、宝暦年中から起筆され、天明四年に完成されました。家伝の秘書にされるおつもりでしたが、こちらからお頼みし、内々に見せて頂きました。商売の元である鉄に関するものですので、家の宝にしたいと思い筆写しましたが決して他人には見せない秘書です。

             摂津大坂住鉄商売 中川

 

●『鉄山秘書』第八(東大本) 

中川氏 中楯文衛門の但し書き

この書は享和二年冬江戸本舟丁の森田次郎兵衛殿方の庄助殿が持参して下さったものです。

   享和三年写  中楯文衛門唯明 六十二才で写す

 

写本の内容比較/筆写された順番

現存する3つの写本の内容を詳細に比較し、各々の違いから筆写された順番を探ると、上記のチャート図のように考えられる。

 



『鉄山秘書』へと至る経緯

2021年11月21日・高橋章司氏(鳥取県文化財局)の講演内容より

『鉄山要口訳」とは?

江戸中期に書かれた鉄山経営に関する袖控えサイズの書物で、全70頁(表紙含む)。

重仲の次男恵助の末裔となる森家(日野町黒坂)で発見され、日野町に寄贈され、現在日野町図書館で保管されている。

※幡原敦夫氏が『下原重仲』(1989)の中で、25頁分の画像とともに、読み下しを紹介。

 

著者は鉄山師山口屋吉兵衛(下原重仲)

・明和5年(176811月に完成→『鉄山秘書』より16年早い

・写本だが、「吉蓮(重仲法号)」の署名と花押がある

▶ 重仲の署名が残る唯一の鉄山関係資料

 

写本製作者は山口屋為吉=重仲の孫(次男恵助の長男)

・「日名山御鑪で之を写す」とある「日名山」鉄山は、『伯耆志』俣野村(支村 池の内)の項目に記載がある。

書写年は不明

▶ 重仲最晩年の文化年間後半から文政年間初め(18101820)と推定。

▶ 重仲は最晩年まで製鉄業と関係していたのではないか?

『鉄山要口訳』の内容

鉄山内の決まり事・賃金・役割分担・書類の書き方・輸送費などの経費・・・と言った、鉄山の経営に関する記述が多い。

誤記が目立つ

「鑪(たたら)」が「鑢(やすり)」となっている

「博奕(ばくち)」が「転変」となっている

書体が途中で変わっている

最初の方は崩し字だが、54頁目から楷書になって、最後の1項目だけ崩し字に戻る

▶途中で手を抜いたか、他の人に書いてもらった?

▶重仲がご褒美に署名した?

▶表紙に「山口屋為吉分」とあり、他の子の「分」もあるのかも・・・

▶ 鉄山経営に慣れた者が書き写したものではないのでは?

▶ 鉄山師修行の一環としての手習いではないか?


『鉄山要口訳』と『鉄山秘書』

『鉄山要口訳』は、

①『鉄山秘書』から技術的な項目を省いた構成、

②『鉄山秘書』より経営に関しては詳しい記述がある、

③『鉄山秘書』と項目順が類似する、

④3点の図は『鉄山秘書』でも使われる。

 

▶ 経営を中心に書かれた『鉄山秘書』の原型が存在?

▶  それが『鉄山諸用記』ではないか? (『鉄山要口訳』はその要約版)

 

『鉄山秘書』日野山人序文

「下原重仲は、歴代かな山を業として(中略)自鉄を綴じて匱に秘する事年有。ある日彼書を携来りて、序を予に乞い(中略)鉄山必用記事と号くる事然り。于時天明四甲辰年孟春」

▶ 天明4年(1784)の数年前に完成し、重仲自身は『鉄山必用記事』とは呼んでいなかった。

 

『鉄山秘書』鉄商中川氏後書(享和3年/1803

「宝暦年中ゟ存付ニ而、漸天明辰年出来致候ニ付」

▶ 宝暦年間(1751~1763)に書き始められた。



『鉄山要口訳」まとめ

●『鉄山秘書』の原型となった『鉄山諸用記』要約版の可能性が高い

●『鉄山秘書』の成立過程を考える上でとても重要

●下原重仲の署名が残り、最晩年の様子がうかがえる資料




『鉄山秘書』の著者、下原重仲

下原重仲とは? Point

●たたら製鉄の技術書『鉄山秘書(『鉄山必用記事』)』の著者。

●重仲は、元文3年(1738)、日野郡宮市村(現江府町)に生まれる。

●下原家は、江府町深山口の祖父正国、宮市に分家した父臨、そして重仲まで3代続く鉄山師であった。(下原姓は現在、森姓となる)

●重仲は、天明4年(1784)、たたら製鉄のすべてを『鉄山必用記事』としてまとめた。

●重仲50才の時、故あって、奥州津軽半島の三厩へと出奔。

●丸7年後、次男恵介が故郷に連れ帰った話は近藤家文書に孝行話として残る。

●享年 文政4年(1821)、84才。法名 星光院海照居士吉蓮。



下原家の系譜/初代、森政継以前

下原重仲の先祖は系図によると、あの「本能寺の変」で死んだ美少年、森蘭丸長定の弟、「森忠政」だとされています。忠政は明智側に捕らえられる前に助け出され、その後、美作津山藩主となり、その子供の重政は病弱であったため早逝したので、その子政継は祖父である忠政に育てられたと伝わります。

※ただし津山側の資料には、重政に政継という子がいたということは載っていない。

政継は放浪の旅に出て※吉ヶ谷、今の江府町深山口に逗留。津山から政継を迎えに来たが津山には帰らずに深山口にとどまり、芳ケ谷のお茶屋の娘と一緒になり、屋号を「トナリ」として、やがてこれが森家のもとになる家「マエゴヤ」とある下場に分家。政継は下原家(森家)の初代となります。

その政継の子供が可継で、父の政継が津山に帰らなかったことで津山への遠慮があったのか、姓の「森」を母方の「下原」に変え、山口屋と名乗りました。

※「吉ヶ谷」は、「芳ケ谷」あるいは「吉賀谷」とも記載される。

下原家の系譜/重仲まで

可継の子どもが正國で、財を蓄えてたたら操業を始めます。

その後の深山口の下原家を継いだのはその子の行広で、行広の代に弟の臨(メグル)を宮市に分家させ、本家の方は「本家山口屋」、分家の方は「宮市山口屋」と呼びました。政継から受け継いだ津山時代からの家宝のうち、兄行広の方は太刀をもらい、弟は短刀をもらいました。

宮市に分家した臨はいろいろなところで鉄山を経営し、孫天秤という新しい仕掛けの天秤鞴(フイゴ)を発明したと伝えられています。

臨が経営したたたらのひとつに鳥取県中部、河村郡大谷(現三朝町)小峠(こだわ)鉄山があり、天明11781)年、臨はそこで亡くなっています。

※津山から引き継いだ家宝の太刀は、本家の後継問題でゴタゴタしたさなかに紛失。短刀は、重仲と恵助が奥州から帰郷の途中、駿河国で熱病にかかって死にそうになり、観音様にお願いをしたら奇跡的に治り、恵助は短剣を奉納。津山藩とのつながりを示す証拠の品がどちらも無くなった。


下原重仲の生い立ち

臨の子が下原吉兵衛、つまり重仲で、号を正庸(マサツネ)とか、最後は吉蓮(キチレン)とか色々変え、大変波乱に富んだ人生をおくっています。重仲は3度結婚して何人かの子どもが生まれ、早世した人も多くあったようですが、長男の仙介と次男の恵助は良き後継となって下原家を盛り立てています。

 

重仲は父臨の跡を継いで、たたらの経営を行いましたが、安永91780)年、重仲43歳の時、幕府(田沼意次)が大坂に「鉄座」を設置して、鉄製品の自由売買を統制し、一元取引を求めました。それまで鉄は競争入札によって結構高い値で売買されていましたが、一元化されたことによって、鉄問屋同士で競争して値を釣り上げる必要がなくなったことで、安値安定→暴落となり、その影響で多くの鉄山師が没落。天明61786)年、重仲49歳となった時、とうとう鉄山廃業を迫られ、資金調達のため大坂に向かいますが、大坂での金策が首尾良くいかなかったことから、重仲は「失意のうちに放浪の旅に出た」というのが定説となっています。

『鉄山必用記事』はその2年前、47歳の時に書きあげられていますが、村下の秘伝であるたたら製鉄の技術から経営のことまで、なぜそれを書物に著したのかは大きな謎です。それが某かの理由で鉄商の中川氏の手によって筆写され、その後も筆写が重ねられて今日に至っている・・・という訳です。

奥州への出奔〜恵助の孝行話

大坂での金策に失敗した重仲は、全国を放浪して本州最北端、奥州(現青森県)外浜三馬屋浦今別村に滞在し、その7年後、次男の恵助(エスケ)が父を迎えに行って宮市に連れ帰ります。これが57歳の時、寛政6年(1794年)です。

その経緯について、奥日野郡大庄屋近藤家四代目当主・近藤平右衛門によって孝行話として書かれた一文があります。万延元年(1860)の近藤家文書「孝行者抜擢書」。

※故影山猛先生の著書『たたらの里』より抜粋して意訳

(概要)

時は江戸時代天明の頃、これはたたら経営に破綻を生じ、失意の末、郷里の日野郡を離れ、放浪の旅に出かけた父を探して、倅の恵助が十数年後やっとその父を連れ帰ったという物語。

恵助が四歳のとき父が故郷を離れ、母が離縁したため恵助は叔母に育てられましたが、父を恋い、慕う気持ちを抑えきれず、十七歳に成長したとき父の行方を捜し、本州最北端の奥州でついに父に会うことができました。

しかし、その道中ではなまりで言葉も通じず、また父と子は長年会うことがなく互いに顔もわからなかったなどの苦労が語られています。

近藤家文書「孝行者抜擢書」〜父を尋ねて奥州へ〜 ▶▶▶



帰国後の重仲〜その晩年

重仲の帰郷後、兄仙介と弟恵助は一生懸命働いて家も立ち直らせ、仙介は宮市村の庄屋を務め、恵助は日野町黒坂の徳本家に婿養子に入って家を盛り立てます。深山口の本家と宮市の分家、そろって下原からまた森姓に戻し、恵助も森姓を名乗ることとし、重仲の代に一旦はたたらを廃業し家運も衰えていたものの、その後の一族の歩みに自信を深めたものと推察されます。こうした「森家」の復興を示すように、江府町や日野町に彼らの名を刻んだ石造物などが、数多く残されています。

 

■宮市神社への寄進

安永8年、重仲42歳のとき「願主下原吉兵衛」の名で寄進。

重仲は放浪後の60歳の時にも「父権右衛門(臨)」の名前で筆頭寄進。

仙介が宮市村の庄屋になった66歳の時には、「森吉兵衛」、「森仙介」の名で筆頭寄進。

※生田論文には棟札も残っていたと記されるが、神社は昭和28年に火事で焼けて棟札はなくなってしまった。

■俣野地区 畑ケ田神社への寄進

通称「天王さん」とも呼ばれる畑ケ田神社の灯篭には、「願主 森恵助昌興」、裏には「文政4年」と刻まれていますが、重仲はその年の11月に亡くなっています。

■元足尾神社の鳥居

足尾社という山の神様の神社にあった鳥居の一本が、深山口公民館のそばにある「深山口堂」の前に放置されています。これは文化14年(1817年)、足尾神社から移された一本の鳥居の柱が割れて残っているもので、森恵助昌興の「昌」の一部までを読み取ることができ、はっきりした字で「吉谷御鑪」と書かれています。この年重仲は80才、恵助は43才で、恵助が吉谷鈩を経営していたことがわかります。

また、足尾社の燈籠には安政6年(1859)にてられ、「吉谷御鑪」「森恵助昌興」とされたものがあります。これは恵助が亡くなってから5年後のこと。恵助の子の為吉が恵助の名で寄進したものではないかともと考えられ、為吉が吉賀谷の鑪(たたら)を引き継いだものと推察されます。

■熊野堂の火袋の記録

池の内から俣野川を上流に向かって北谷に「日名山(ヒナヤマ)たたら」、またの名を「日名山南たたら」(日南山とも書く)があります。その近くの森に俣野・熊野神社の前身と言われる「熊野堂」があり、堂の中の火袋の部分に草書体で献灯と書いてあり、「願主昌興(恵助)」となっています。

■黒坂の泉龍寺/恵助の墓

日野町黒坂、泉龍寺にある森家の墓地には恵助の墓があり、森家には位牌も残されています。

『夤考実名』から想像する重仲の晩年

 

▶最晩年の下原重仲の様子や家族の関係がわかる資料として「鉄山要口訳」とともに日野町に寄贈された資料「夤考実名」(謹んで考える実名)があり、そこには「八十四翁祖父吉蓮」と署名してある。

▶この中身は「求めに応じて之を考える」として「昌雄」という名前を姓名判断し、裏はその「昌雄」の花押を考えたときの書類となっている。

▶その日付は、文政4年、亡くなる年の5月吉日で、亡くなったのが11月。亡くなる半年前にあって、孫の為吉(=昌雄)のためにこの難解な文章を書いていることから、重仲は大変な知識人であったということが解る。

▶為吉は「鉄山要口訳」で「山口屋為吉」と一人前の鉄山師の名のりをしていることからも、元服の年(文政4年)頃に書写された可能性が高いと考えられる。



江府町 ゆかりの地(深山口)

江府町宮市

青森県・・・・



まとめ(今後立証〜解明されるべきこと)

著作の順番 年代

●重仲は14歳から26歳にあたる宝暦年中(1751年〜1764年)において、まず「経営編」として『鉄山諸用記』を書き始めているのではないか?

●経営編が完成したところで明和5年(1768年)になって『鉄山要口訳』という要約版を作り、その後、『鉄山諸用記』の「技術編」的なものを書き進めているのではないか?

●天明4年(1784年)になって日野山人が序文を書いて『鉄山必用記事』と命名したが、この数年前に、この『鉄山必用記事』は完成していたのではないか?

●つまり「孝行者の記録」の中では、重仲は44歳の時(天明1年/1781年)に大坂に出て、そこから諸国遍歴へ。大坂から諸国遍歴に行ったときには、もうすでに『鉄山必用記事』の原形は完成していた。伯耆から持ち出されたかどうかは不明。日野山人に預けていた可能性も考えられる。

●日野山人の序文に『鉄山必用記事』は「自鉄」を綴じた「匱(ひつ)」の中に入れてあったとされており、鉄の箱に入れた原本がどこかに残っているのではないか?

著作の動機と出奔〜放浪の理由

●『鉄山諸用記』が「経営編」から書かれたことなどから、後継を担う者のための指南書として著作したとされるのは、ほぼ間違いないのでは?

●『鉄山必用記事』の背景には、正國、臨、重仲自身が操業していたたたらがあり、それらのたたらを調査すれば、何故そうしたものを書いたかと言うことを含め、『鉄山必用記事』をより理解することができるのではないか?

●幡原敦夫氏の説によると、たたらというのは労働者を酷使して仕事をさせるのだが、重仲が出家して吉蓮となったのは、そのような金儲けをするやり方に嫌気がさしたからだとされている。

●『鉄山必用記事』が完成していたとして、重仲はお金を借りるときに、それを持っていくことによって、自身の信用性を担保することになり、より有利に資金繰りを頼むことができると考えたのではないか?

●放浪の旅に出かけたのは、「たたら経営に破綻を生じ、失意の末」とされているが、「破綻」と言うことではなく、ひととおり家業を始末して、当時流行していた「六十六部廻国巡礼」の体をとって諸国遍歴に出かけたのではないか?

●あるいは、「出奔」の動機は、若くして亡くした先妻や子どもたちへの供養だったのではないか?(事実、多くの子をもうけたがいずれも早世している)

●津軽でこどもたちに手習いを教えていたことを見ても、重仲はとても優しい人で、孫の為吉に『鉄山要口訳』を筆写させたこと、更に拡大解釈をして『鉄山秘書』といった書き物を残したことを見れば、鉄山師(経営者)と言うより「教育者」への指向性が強い人だったのではないか。 

●六十六部廻国巡礼はお経を国分寺とかに奉納しつつ回り、石碑を建てることがあり、放浪中の重仲もそうしたことが考えられ、そうした調査によって見えてくるものがあるかも?

 

帰郷後のこと

●重仲は、東北から日野郡に帰ってからは、ほとんどたたらとは関わっていなかったと言われていたが、そうではないのではないか?

●帰郷後、恵助は深山口や黒坂でたたらを操業して家運を立て直しており、重仲もそれに少なからず力を貸しているはず。

●これらのことからも、「たたら経営に破綻を生じて出奔」という定説には疑問が残る。

●恵助は、自分がたたら経営を行うために、重仲の助力が必要だと考え、奥州に迎えに行ったのではないか?

重仲が「鉄山要口訳」を書いたのは明和五年(1768年)のこと。現在残る「鉄山要口訳」はこれを為吉日名山鈩で写したもの。

●現存する『鉄山要口訳』が、孫の為吉を指南したものだとすれば、今まで下原家のたたら経営は正國〜臨〜重仲までの三代とされていたが、それに恵助〜為吉と、五代が関わったものと思われる。

●為吉が「鉄山要口訳」を書いたのは、重仲が亡くなった文政4年(1821年)ではないか。「夤考実名」は為吉(=昌雄)のために書かれたもので、為吉は「鉄山要口訳」で「山口屋為吉」と一人前の鉄山師の名のりをしており、元服の年(文政4年)頃に書写された可能性が高いと考えられる。

江戸中期に庶民が花押を用いることは非常に稀。孫 為吉のために立派な武家様の花押を考えたのは(重仲自身が花押を使っていることも併せ)、織田家家中として武名をはせた森氏の後代としての誇りが重仲に強くあったのではないか?